第60話 襲来
その報せが来たのは、検閲を終えた昼過ぎだった。
関門に一騎の従士が駆け込んでくる。馬を乗り捨てるように飛び降り、息を切らして叫んだ。
「魔物の群れです! 関門のずっと南で、東へ向かう群れを確認しました!」
詰所の空気が一変する。蒼の騎士が地図を広げ、従士が指で示した。関門からかなり南に外れた地点。そこから東へ線を引けば――オルセアには向かわない。
アストレア方面だ。
隣でアリアが息を呑むのが分かった。
寂れた街。まばらな巡回。装備を新調したばかりの数少ない兵。あの街に魔物の群れが流れ込んだらどうなるかは誰の目にも明らかだ。
「まずは軍議を開く! コンラート様に報告! それから編成――」
騎士の言葉を最後まで聞く前に、俺は詰所を駆け出した。
「おいっ! 待てっ! まずはコンラート様に――」
そんなことをやっていては間に合わない。
そして、俺の後を追ってくる者が一人。
「すみません! 私がリーダーとしてソラを止めて参ります。ソラ、待ちなさい」
アリアだ。だが、その言葉の裏に「止まるな」という意味が込められているのがはっきり分かった。
誰のか分からない馬に乗り駆け出す。アリアもだ。
後ろからイザベルやカイト、ガロも追従してくる。
「ソラ、助かったわ」
馬を隣に並ばせて駆けるアリアが礼を言う。
「何がだ?」
「あなた、私のためを思って飛び出してくれたのでしょう? 軍議やコンラート様の指示を仰いでいたら間に合わない。だから軍律を破ってでも先に飛び出して、私が追いかける口実を作ってくれた。そうでしょう?」
「違う。俺はただ武功が欲しいだけだ」
「素直じゃないわね」
「…………」
俺は前だけを見て馬を駆った。一か月かけて体に刻んだ地形が頭の中で勝手に道を組み立てる。涸れ谷を避け、岩場を迂回し、最短でそこへ向かう。
♢
先に見えたのは土煙だった。
荒れ地の向こうから低い地鳴りとともに近づいてくる。目を凝らせばそれは無数の小型の魔物の群れだった。犬ほどの大きさで、灰色の体毛に裂けた口。一匹一匹は大したことがない。だが――多い。
百や二百じゃない。荒れ地を埋め尽くすように波になって東へ走っている。地面そのものが灰色に流れているみたいだった。
「あの魔物は――マウガ! 雑食でなんでも喰らうわ! 草も木も屍も――人間も! 止めるわよ!」
アリアの号令で班が展開する。俺は【天翔纏】を纏い、馬を乗り捨て、先頭の一群に突っ込んだ。木剣じゃない――今日は鉄の剣だ。
一薙ぎで三匹が宙を舞う。手応えは軽い。二薙ぎ目でまた三匹。弱い。だが、斬っても斬っても群れは止まらない。俺が十匹斬る間にその何倍もが脇を駆け抜けていく。奴らは戦う気がない。ただ、東へ走ることしか頭にない。
イザベルの薙刀が炎の弧を描き、まとめて数匹を焼き払う。カイトの左手の剣が冷気を引き、足元を凍らせて群れの一角を転ばせる。ガロの大剣が地を叩けば、土が壁になってせり上がった。
それでも足りない。
壁の脇を、凍った仲間の上を、群れは踏み越えて走っていく。数が多すぎる。五人では手が回らない。
このままでは取り逃がす。そして、その先にはアストレアがある。
その時だ。
「――みんな、耳を貸して。今から魔物を全部、私に引きつける!」
アリアが群れの進路へ一人で歩み出る。
「ソラは私に来る魔物を斬って。イザベル、カイト、ガロは抜けた個体を追って」
言うが早いかアリアの全身から魔力が立ちのぼった。
淡いピンクの霧。
見覚えがあった。いつだったかアリアが一人で練習していたあの霧だ。あの時は何の魔法か聞きそびれた。
「【聖魅霧】!」
霧がふわりと広がった、その瞬間――群れが止まった。
東へ走っていた無数の魔物が一斉に首を巡らせる。裂けた口から涎を垂らし、その目がひとつ残らずアリアを向いた。
刹那――群れが雪崩を打って反転する。アリアめがけて殺到してくる!
効いたのは魔物だけじゃなかった。
ガロだ。
武器こそ下ろしていない。だが、大剣を構えたまま顔だけが完全にアリアへ向いてしまっている。追うはずの魔物がその脇を素通りしていた。
「ガロ! あんた何ぼさっとしてんのよ!」
イザベルの怒声が飛ぶ。ガロがびくりと震え、慌てて魔物へ向き直った。カイトもちらちらとアリアに視線を向けている。気になって仕方ないようだ。
俺は――何ともなかった。
霧は俺の周りにもある。しかし、【天翔纏】の魔力の方が強いのか、俺には届かない。むしろ俺にとってはこのピンクの霧は都合がいい。群れが一点に集まってくれるなら話は早い。
ここを逃せばまたこいつらは東へ向かう。ここで決める!
「【天瞰眼】!」
「【天衝脚】!」
金の眼を頭上に顕現。これで死角はない。さらに、空中に金色の足場を敷く。それを蹴って、もう一枚敷いて、また蹴る。宙を舞いながらアリアの隣へ。上から。横から。斬っては足場を蹴り、蹴っては向かってくる次の一群へ。アリアに届く前に片っ端から斬り伏せていく。
アリアは動かない。霧を絶やさず囮であり続ける。俺を信じて背中を晒している。
その期待に応えないわけにはいかない。
どれだけ斬ったか数えるのはやめた。気づけば荒れ地は魔物の骸で埋まり、動くものはいなくなっている。
いや――一つだけいた。
地鳴りがする。さっきまでの群れの足音とは違う。もっと重く、もっと深い。
土煙の奥からそれは現れた。
四足の巨躯。肩までの高さだけで俺の背丈を超える。岩みたいな灰色の毛皮に、丸太のような前肢。裂けた口には小型の魔物の骸を咥えていた。ナイトクローラーと同じか、それ以上にデカい。
そういうことか。小型の群れが死に物狂いで東へ走っていたのはこいつに追われていたからだ。狩られて、追い立てられて、逃げていた。
魔物が魔物を狩る。
「……へえ」
思わず声が漏れた。魔物同士でも喰い合うのは知らなかった。
だが、そんなことはどうでもいい。魔物は狩る。
「ソラ」
「ああ」
アリアが隣に並ぶ。霧はもう消えている。代わりに銀の燐光がその全身を覆った。
「【聖翼纏】!」
巨躯が骸を吐き捨て、こちらへ向き直る。ギロリと鋭く睨む。次の瞬間、大気が震えるほどの咆哮が荒れ地を叩いてマウガの屍を揺らして、俺の腹の底まで響く。
丸太のような前肢が地を蹴り、巨体が突っ込んでくる。速い。あの図体でこの速さは反則だ。
俺は正面から受けなかった。横へ跳び、注意を引く。アリアは反対側へ回る。
巨躯が俺を追った。前肢が振り上げられる。岩をも砕く一撃。
躱せる。が……躱さない。
俺は前肢との間に、金色を敷いた。
足場じゃない――緩衝材だ。
前肢が金色に叩きつけられる。ずしんと重い衝撃が、光の膜に喰われて鈍る。その鈍った一瞬、俺は前肢の内側へ滑り込み、剣を突き上げ、毛皮は裂けたが、骨までは達していない。
くそっ、硬い!
巨躯が怒りに吠え、俺を振り払おうと身をよじる。
その動きで奴の首が上がった。付け根の下が晒される。
【聖翼纏】を纏ったアリアなら届く。だが――威力が足りない。あの硬い毛皮を貫くにはあと一押し要る。
――だったら。
こいつはもう跳んでいた。俺が何をするか分かっているからだ。
跳んだアリアの重心。伸びる脚。次に踏もうとする一点。それを読んで、俺は宙に金色を敷いた。ぴたりと、そこへ。
「【天衝脚】!」
ズレはない。
アリアの爪先が金色を捉えて踏み込む。銀の残光を引いてアリアが上空へと跳ね上がった。その頭上にもう一枚。俺は【天衝脚】を敷く。
アリアがそれを蹴り、真下へと反転――銀の翼が羽ばたき、落下にさらなる速度が乗る。巨躯の死角、晒された首の付け根へ――まっすぐに急降下。
剣先が伸びる。モーションのないあの刺突。
銀の一閃が深々と貫くと、巨躯がびくりと痙攣する。丸太の前肢から力が抜け、地響きを立てて崩れ落ちた。
俺は剣を納め着地したアリアと目を合わせる。
「【天衝脚】はもう自在ね」
「当然だ」
「誰が指導したと思っているのよ」
アリアが少しだけ笑う。
そこへ遅れて蹄の音が近づいてきた。
蒼の騎士たちとダリオたち二年だ。編成を整えて後を追ってきたらしい。
奴らは戦場を見て馬を止めた。
荒れ地を埋める魔物の骸。その真ん中に崩れ落ちた、山のような巨躯。そして、傷ひとつなく立っている俺たち五人。
「……嘘だろ」
ダリオの声が掠れていた。
先頭の騎士が馬を降り、骸の山とあの巨躯――ガルムラーグと呼ぶらしい――を検分して回る。それから、俺たちの前に立った。
「軍議を待たずに飛び出したこと、本来なら処分ものだ」
騎士の声は硬い。だが、その目はもう一度、骸の山を見る。
「……だが、お前たちが止めなければ、この群れはこの先の街まで抜けていた。結果がすべてを語っている。今回は不問とする」
それだけ言って、騎士は後始末の指揮に戻っていった。
アリアが小さく息を吐く。張っていたものが少しだけ緩んだ音だ。
♢
後始末は騎士たちに任せ、俺たちは一足先に帰路につく。
途中、俺は頭の重さに少し足を緩めた。【天瞰眼】の使いすぎだ。それをアリアは見逃さない。
「座って」
「歩ける」
「いいから」
道端の岩に座らされる。アリアの手が額に触れた。
「【聖光癒】」
淡い光。頭の奥の重さがほどけていく。
俺の治療を待っていたイザベルがカイトとガロの腕を引く。
「カイト、ガロ、行くわよ」
「でも、ソラが――」
「大丈夫、アリアがいるから。アリア、先に行ってるからソラをお願いね」
「え? ちょっと、イザベル――」
アリアは手を伸ばし、イザベルの背に声を掛けようとした。だが、俺の治療を優先し、その手を引っ込めた。治療を終えた後もしばらく座ったまま俺たちは互いに黙っていた……が、アリアはぽつりと口を開く。
「……あの魔法のこと、説明しておくわ」
珍しく歯切れが悪くて、頬が赤い。
「【聖魅霧】。ライナス先生の知り合いに、閃光星将様の部隊で聖属性を使う女の人がいるの。その人に教えてもらった魔法よ。その人自身は使えないのだけど、聖属性にはそういう魔法があるって。便利だから覚えておきなさいって言われて」
アリアの目がちらりと俺を窺う。
「本当は人前であまり使いたくなかったの……魔物だけじゃなくて、人まで妙なことになるでしょう。だから、練習していることも黙っていたの」
一人で練習していた、あの霧か。合点がいった。
「便利な魔法だな」
「……便利? 誘惑するような魔法よ。嫌じゃない?」
「あの魔法がなければ、アストレアにまで魔物が及んでいただろ。お前に意識がむいてくれたおかげで、斬りやすかった」
「……やっぱりアストレアのことを、考えてくれていたのね」
「…………」
「あなたって本当に……ありがとう」
西の空はもう暮れかけている。荒れ地の向こう、群れが向かおうとしていた東の地平を、アリアがじっと見ていた。
今回は無事だった。けど、次に同じことがあれば、アストレアは陥落する。
セレスティア子爵家は軍閥貴族。騎士は自前で用意しなければならない。
だからアリアは騎士になる。騎士になって出世して……いや、こいつは騎士になったら、すぐにアストレアに戻るのかもしれない。街を、セレスティア子爵家を守る盾として。
「さぁ、もう行きましょう」
アリアが立ち上がって、俺に白く細い、柔らかな手を差し出す。もう顔の赤みは引いていた。
「ああ、報告書だな」
「今日は私が見てあげるから」
「助かる」
そう言って、アリアの手を握る。
しばらくそのまま、二人で詰所まで歩いて帰る。
なぜか、馬の手綱を握る気にはなれなかった。
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