第56話 歓楽街ルパナルと……
アストレアを出発して街道を進む。俺は今日も馬車を降りて、駆けながら素振りを続ける。木剣が風を切る音だけがやけに耳に残る。昨日まで見ていたあの寂れた街の静けさが、まだどこかに尾を引いていた。
だが、それも夕暮れまでのことだった。
日が傾き、空が藍色に染まる頃。前方に明るい光の塊が見えてきた。
「あれが今日泊まる街か?」
「ええ。ベルモント子爵家の街――ルパナルよ」
二日続けて街に泊まるには理由がある。
ベルモント子爵家――アリアが断った縁談相手の家だ。そのベルモント子爵家が治めるルパナルを視察したい。アリアがそう語ったのだ。だから俺たちはアリアに同行する。
馬車が近づくにつれ、光がはっきりしてくる。夜だというのに街全体が煌々と輝いていた。
♢
門をくぐった途端、喧騒が押し寄せてきた。
夜だというのにかなりの人出だ。あちこちに灯りが灯り、酒の匂いと笑い声が満ちている。呼び込みの声、楽器の音、どこかの店から漏れる歌。
アストレアとは何もかもが逆だった。同じ子爵家の街なのにこうも違うのか。昨日の静けさが嘘みたいだ。俺は正直、面食らっていた。
隣を見ると班のみんなも街の様子に見入っている。
イザベルは意外にも落ち着いていた。
「へえ。これがベルモント子爵家のルパナルの街ね」
「知ってるのか?」
「有名よ。西で遊ぶならここって言われてるくらい。まぁこういう街も各方面に一つくらいはあるものよ」
肩をすくめ、どこか大人びた口ぶりで言う。
カイトは笑みを浮かべながらも視線だけは油断なく通りを流していた。
「賑やかだね……でも、こういう場所は揉め事も多いから」
物腰は穏やかだ。だが、いつでも動ける構えなのが分かる。元は名家に仕えていた男の癖だろう。
ガロはというと――様子がおかしい。
石みたいな大男がそわそわと落ち着かない。忙しなく首を巡らせ、通りの店を端から端まで目で追っている。無口なあいつが何かの匂いを嗅ぎ当てようとするみたいに鼻の穴を膨らませていた。
「ガロ、どうした」
「…………」
答えない。だが、その目はやたらと輝いていた。
その視線の先には店先に立つ女の姿。
どの女もこの前アリアが試着したスカートよりずっと短い丈のものを穿いている。声を張って道行く男たちを店へ呼び込んでいる。
なんだ? この街は……やたらと呼び込みが多い。
そんなことを考えていると一人の女が俺の腕に絡みついてきた。
「ねえ、お兄さん。いい男じゃない。私と遊ばない? サービスするから」
「遊ぶ? サービス?」
遊びに誘われたらしい。よく分からないが誘われたなら行ってもいいのか。俺が一歩踏み出そうとした時――
「ソラ、駄目!」
ぐいっと後ろから襟を掴まれた。アリアだ。
「なんでだ?」
「なんで、じゃないの! ついていっちゃ駄目」
女がなおも俺の腕を引く。
「いいじゃなーい。ちょっとだけ――」
だが、女の言葉が途中で止まった。止めたアリアをまじまじと見てからだ。それきり女の勢いがしぼんでいく。何かを諦めたみたいに俺の腕から手を離した。
「……さすがに勝てないわ。お邪魔さま」
女は肩を落として店へ戻っていく。
なんで急にやめたんだ。俺は断ってもいないのに。
「まったく……ソラ、あなたね」
アリアが深いため息をつく。
「ここは歓楽街よ。西でも五本の指に入るくらいのね」
「かんらくがい」
「……ああいうお店がたくさんある街ってこと。アストレアではああいう商売は禁止されてるの。でもここは公認。それを前面に出して人を街に呼び込んでいるのよ」
「ああいう店?」
「……お、女の子と話せたり、隣通しで仲良くなれるお店よ」
確かに女――アリアと一緒に訓練するのは悔しいけど楽しい。なるほど、それでこの賑わいか。人が集まれば金が回って街も栄える。
「だったら、アストレアもそうすればいいじゃないか。これだけ人が来るなら」
「……そう簡単じゃないの」
アリアが通りの奥へ目をやる。
「そういう人が集まる分、質の悪い人間も集まる。喧嘩、盗み、たちの悪い酔っ払い。栄えれば栄えるほど、治安は悪くなる。その尻拭いをするのは街を守る側よ」
治安が悪くなる。言われてみれば確かに、この喧騒にはどこか剣呑な気配が混じっている。行き交う者たちはどこか周囲を警戒したり、護衛をつけている商人風の男たちもいた。王都とは違う。
栄えることと、街が荒れること。それが背中合わせなら確かにそう簡単な話じゃないのかもしれない。
その言葉を証明するみたいに騒ぎはすぐに起きた。
「よお、ねえちゃん。いくらだ?」
酔っ払いの男が千鳥足でアリアに近づいてくる。顔は赤く、酒臭い。
「失せなさい」
アリアが冷たく突き放す。だが、男は聞いちゃいない。
「つれないこと言うなよ。ほら――」
男の手がアリアの肩に伸びる。
その手が触れた瞬間――俺はもう動いていた。手首を掴み、そのまま捻り上げる。稽古で染みついた体が考えるより先に反応していた。
「いっ、痛ぇ!」
骨がきしむ手前でぴたりと止める。
「お、おめぇ! 急になんだ!?」
「嫌がっているだろ?」
「女は最初みんなそう言うんだよ!」
「……そうなのか?」
「そんなわけないでしょ!」
「くそっ! もういい! お高くとまりやがって!」
俺が手を離すと、酔っ払いは捨て台詞を吐いて別の女に絡みに行った。
「ちょっとぉ、痛いって!」
今度は店先の女の腕を無理やり引きずろうとしている。だが――
「そこまでにしておけ」
通りの人混みがすっと割れる。
現れたのは身なりの整った男だった。仕立てのいい上着。恰幅がよく口元には柔らかい笑みを湛えている。一目で身分のある人間だと分かる。
男が肩に手を置くとそれだけで酔っ払いの顔色が変わった。
「ベ、ベルモント子爵様……!」
子爵? この街の領主だ。
「私の街で女性に手荒な真似は感心しないな。今日はもう帰って休みなさい」
穏やかな声だった。だが、酔っ払いは平謝りで逃げるように去っていく。怒鳴りもしないのにそれだけで場が収まった。大した貫禄だ。
子爵がこちらを振り返る。
「怖い思いをさせたね。私はドレイク・ベルモント。この街を預かる者だ」
朗らかな笑みだ。物腰も柔らかい。悪い人間には見えなかった。
と、その時。子爵の視線がアリアに止まる。
その一瞬――背筋にぞわりと嫌なものが走った。
この目を俺は知っている。二度見たことがある。アリアを襲おうとして俺に返り討ちにされたエイガー。それからカイトを縛りつけていたワフェル。あいつらがアリアを見た時のあの目だ。獲物を見定めて舌なめずりするような――執着と下心の入り混じった目。
俺は思わず半歩前に出る。
だが、それも瞬きするほどの間のことだ。
次に見た時、子爵の目からはもうあの色は綺麗に消えていた。残っているのは人の好さそうな笑みだけ。まるでさっきのは俺の見間違いだったみたいに。
「……おや。もしや、セレスティア子爵家のアリア嬢ではないかね?」
「……ご無沙汰しております、ベルモント子爵」
アリアが礼を保ったまま頭を下げる。だが、その声はいつもより硬い。
「やはり! いや、見違えたよ。すっかり立派な騎士見習いだ」
子爵は心底嬉しそうに手を打つ。
「そうだ、アリア嬢。せっかくの縁だ。うちの息子との話、もう一度考えてはくれないかね。あれも君のことを気に入っていてね。君さえよければいつでも――」
「お気持ちはありがたいのですが」
アリアが静かに、しかしきっぱりと遮る。
「あの話はお断りしたはずです。私は自分の力で家を立て直すと決めました。その心は変わりません」
断られても子爵の笑みは崩れなかった。
「ふむ……残念だが君らしい。無理は言うまいよ。だが気が変わったらいつでも訪ねてきなさい。ベルモントの門はいつでも開いている」
どこまでも朗らかな声だ。
その時ふと気づいた。
子爵の斜め後ろにいつの間にか一人の男が立っている。
痩せた、影の薄い男だ。灰がかった外套を羽織り、気配というものがまるでない。いつからそこにいたのかまったく掴めなかった。さっきまで確かに誰もいなかったはずなのに。
「ああ、彼は私の騎士団長。ヴェイル・カルマインだ」
ヴェイルと呼ばれた男がぬるりと会釈する。目が合っても何を考えているのかまるで読めない。背景に溶けてしまいそうな不思議な男だ。
「では、ゆっくりしていくといい。よい夜を」
子爵は最後まで笑顔を絶やさず、団長を連れて人混みの中へ消えていった。
……気のいい領主だ。アリアの家の窮状にも同情的で縁談を勧めてくるのも悪気があるようには見えない。
なのに。
さっき感じたあの視線のことがなぜか頭の隅に小さな棘みたいに残っていた。
周りを見れば、カイトはいつの間にか俺の斜め後ろに立って、油断なく周囲に目を配っていた。ガロは――こっちは相変わらず女に視線を巡らせている。
「アリア、大丈夫だった?」
イザベルがアリアの肩に手を置く。
「ええ……少し疲れただけ」
アリアがうんざりした顔で息を吐く。
その夜は通りから少し外れた宿を取った。
治安が悪いと聞いていたので、念のため剣を枕元に置いておく。夜通し遠くから喧騒が聞こえていた。アストレアのあの静まり返った夜とは大違いだ。
静かすぎる街とうるさすぎる街。
同じ子爵家でこれだけ違う。片方は栄えて、片方は寂れている。ベルモントは断ったアリアの縁談相手の家だ。もし縁談を受けていたら、アリアはこの繁栄の中にいられたのかもしれない。
だが、アリアはそれを選ばなかった。
この街の栄え方を――歓楽街を前に出し、治安と引き換えに人を呼ぶやり方を見た上で断ったんだろう。自分の力で這い上がる、と。
その意味の一端が今なら少しだけ腹に落ちた気がした。寂れていても人が穏やかに暮らせる街の方がいい。きっとアリアはそういうのを望んでいるんだと思う。
♢
翌朝、ルパナルを発った。
街道をひたすら西へ。畑も林も減ってあたりは岩がちの荒れた土地に変わっていく。空気が張り詰めていくのが分かる。国境が近い。
そして、昼を過ぎた頃。
地平の先にそれが見えてくる。
街というより――要塞だった。
高く分厚い城壁が荒野の真ん中にそびえている。街全体がそのまま一つの砦のようだ。歓楽街の華やかさもアストレアの寂しさもない。ただ、武の匂いだけがある。
「あれが……」
「ええ」
アリアがまっすぐにその街を見据える。
「氷刻星将様の街――オルセア。第四軍の拠点よ」




