第42話 偽りと本物
座学の時間は相変わらず地獄だった。
右にアリア、左にイザベル。総合一位と三位に囲まれて勉強しているというのに、俺の頭はちっとも軍略を覚えてくれない。
「ソラ、この陣形の弱点は?」
「えーと……後ろ?」
「どうして後ろなの。理由を言ってごらんなさい」
「……勘だ」
「勘で点が取れたら苦労しないのよ」
イザベルが額を押さえ、アリアが小さく笑う。二人がかりで教わっても俺の座学は牛の歩みでしか進まない。それでも、白紙だった頃よりはマシだと自分に言い聞かせる。一歩ずつだ。
ふとアリアの横顔が目に入った。教える時の真剣な眼差し。こいつは出会った時からずっと変わらない。剣を握れば誰よりも鋭く、俺の隣で同じ高みを目指す相棒だ。一位の実力を持ちながら、俺みたいな落ちこぼれの座学に嫌な顔一つせず付き合ってくれる。大切な仲間だと心からそう思う。なぜだか、こいつのことは初めて会った時からどこか尊いものに見えていた。
それはそれとして軍略はさっぱり頭に入らないのだが。
だが、実技となれば話は別だ。
カイトと打ち合う時間が俺は嫌いじゃなかった。あいつの捌く剣を相手にするのはいい鍛錬になる。そして最近妙なことに気づいていた。
カイトの顔が変わるのだ。
普段のあいつはいつも笑っている。柔らかい、当たり障りのない笑顔。だがその奥が笑っていないのは初めて会った時から分かっていた。あれは作り物の笑みだ。
ところが――俺と剣を交えている時だけその顔が違う。
偽りの笑みが少しだけ剥がれる。本気で剣を振るって、息を切らして、目が真剣になる。その時のカイトの顔はいつもの作り笑いとは別物だった。心の底からこの打ち合いを楽しんでいる。そんな本物の笑みに近い顔だ。
俺と剣を交えている間だけこいつは素になる。俺はそれがなんだか嬉しかった。
♢
その夜、部屋でカイトと話す。
二段ベッドの上と下。最初の頃は一言も交わさなかった俺たちが、最近は少しずつ話すようになっていた。きっかけはカイトの【氷刃】を【天翔纏】で防いだ時から。あれがなければ今も話していなかったかもしれない。
「ソラって、家族はいるの?」
カイトが下の段からふいに聞いてきた。
「わからない。いるのかもしれないし、いないのかもしれない」
「……わからない? どうして?」
「孤児院で育った。ガルドレア付近の貧しい孤児院だ。飯を食うのがやっとの孤児院だった」
隠すことでもない。俺は知られたくないことなど何もない。聞かれたからありのままを話した。
「でも、楽しかったぞ」
「楽しかった?」
「ああ。シスターエレナっていう人がいてその人が俺たちの面倒を見てくれた。今の俺があるのはあの人のおかげだ。それにクロフォードっていうライバルがいてな。そいつに勝つために俺は強くなる。いつか必ず三大極星になって、あいつを超える」
俺が一息に語るとカイトはしばらく黙っていた。それから、ぽつりと言った。
「……君は強いね」
「剣の話か?」
「ううん。そういうことじゃなくて。なんていうか……心がまっすぐだ」
カイトの声がいつもより静かだった。
「僕の家は……あまり、いい思い出がないんだ。色々あってね。詳しくは言いたくないけど」
カイトはそれだけ言って口をつぐんだ。断片だけをぽつりと落とすように。それ以上は語らない。いつものはぐらかしとは違う。本当に言葉にしたくないのが伝わってきた。
俺は無理に聞かなかった。人には話したくないこともある。それでいい。
ただ、カイトは小さく続けた。
「僕は自分の境遇をずっと過酷だと思ってた。でも……両親の顔も知らない君の話を聞いてたら、僕なんてまだマシなのかもなって、そう思えてきたよ」
「比べるもんじゃないだろ。お前にはお前のきつさがある」
「……そうかもね」
暗闇の中でカイトが少しだけ笑った気がした。
だが、カイトの剣には悩みも生まれていく。
俺と打ち合ううちにこいつは攻めることを覚え始めた。受けるだけの捌く剣に攻めの一手を混ぜるようになった。それ自体は悪くない。むしろ剣の幅が広がっている。
だが――その代償もある。
攻めっ気を出すとこれまで培ってきた捌く剣の精度がわずかに鈍る。受けに専念していた頃のような、鉄壁の守りが崩れる。攻めと守りのどっちつかず。その過渡期にカイトは入っていた。
結果、他の生徒との手合わせでカイトは押されるようになった。負けはしない。だけど明らかに劣勢。これまで捌くだけで勝ててきた相手に攻めを意識したせいで隙ができて取られる。新しいものを得るために、古いものが一時的に削がれている。成長にはこういう時期がある。剣を組み替えている最中はどうしても弱くなる。
俺はそれを悪いことだとは思わなかった。殻を破ろうとしている証拠だ。だが――そう思わない者もいた。
昼休み中庭でのことだ。
また、ワフェルがカイトを呼びつけていた。
「カイト。最近、稽古で精彩を欠いているな? お前が手合わせで取られているのを何度か見かけたぞ」
「……申し訳ございません」
「来月は護衛が試験に加わるのだろう。そんな調子で順位を保てるのか」
「精進します」
「精進、精進と口ばかりだ。お前が落ちぶれれば誰の顔に泥を塗ることになるか、分かっているのか」
「……はい。申し訳ございません、ワフェル様」
カイトは頭を垂れて謝り続けていた。
その顔にはいつもの偽りの笑みが貼りついている。昨夜、部屋で語った時とはまるで声の張りが違う。。ワフェルの前ではこいつはいつもの作り物の笑みと抑揚のない声に戻る。波風を立てず、ただ従順に、すべてを受け流す顔と声に。
俺はたまたま通りかかり、それを見ていた。声をかける筋合いもない。だが、胸の奥にもやもやしたものが残った。
カイトの剣が一時的に弱くなっているのは、あいつが成長しようとしているからだ。殻を破ろうともがいているからだ。それを頭ごなしに叱るなんて。ワフェルはカイトの剣の中身など何も見ていない。ただ結果しか見ていない。
♢
そして、月例試験の日が来た。
今回から護衛が試験項目に加わっている。武術、魔法、座学、そして護衛。模擬戦に代わる新しい試験だ。
座学、武術、魔法を終えていよいよ護衛試験が始まる。
訓練場の中央に人型のマネキンが一体置かれていた。あれが護衛対象らしい。ライナスが説明する。
「これより護衛試験を行う。護衛対象はこの人形だ。賊役の教師がこの人形を狙って襲撃する。お前たちは人形を守り切れ。守った時間と人形が受けた損害で評価する」
賊役の教師が数人。木剣だけでなく魔法も使ってくるという。護衛対象を狙う賊から対象を守る。自分が戦うのとはまた違う試験だ。
「では、最初にやりたい者は?」
ライナスが問う。生徒たちが互いに顔を見合わせる。誰も手を挙げない。どんな試験か分からないから、まずは他人のを見て様子を窺いたいのだろう。
だが、俺は違った。
「やる」
真っ先に手を挙げた。誰よりも先にやりたい。なんでも一番が気持ちいい。様子見なんて性に合わない。やるなら一番手だ。
ライナスが少しだけ口の端を上げた。
「いいだろう。ソラ、前へ」
マネキンの前に立つ。俺の仕事はこいつを守ることだ。
「始め!」
合図と同時に賊役の教師が三方から仕掛けてきた。
【天翔纏】を纏う。金色の光が全身を包み、身体能力が跳ね上がる。一人目の木剣を弾き、二人目の斬撃を受け止める。賊役の教師も本気では襲ってこない。だからこの三人くらいは苦もなく捌ける。
だが――守るとなると話が違った。
自分の身一つでならいくらでも躱せる。だが、守るべきマネキンは動かない。俺が一人を相手にしている隙に別の一人がマネキンへ回り込む。慌てて戻る。すると今度は逆側が空く。
賊が狙うのは俺じゃない。マネキンだ。だから俺がいくら強くても、三人が散開してマネキンを狙えば、すべては防ぎきれない。
「くそっ!」
三人目が放った氷の魔法がマネキンの肩を掠めた。守りきれない。俺が一人を弾き飛ばす間に、別の賊がマネキンに木剣を打ち込む。
俺は必死にマネキンの周りを駆け回り、迫る攻撃を片っ端から叩き落とした。【天翔纏】の超反応で、なんとか大半は防いだ。だが、いくつかは通された。一人で三方を守るのは、どんなに速くても限界がある。
時間切れの合図が鳴る。マネキンは無事とは言えなかった。何発かもらっている。俺の力をもってしても完璧には守れなかった。
自分が戦うよりずっと難しい。守るというのはこういうことか。強いだけじゃ足りない。
俺の番が終わると他の生徒たちが続いた。後の連中は俺より上手く守っていた。
当然だ。あいつらは俺の試験を見ていた。賊がどう散開して、どこを狙うのか。一人で三方を守るのがいかに無謀か。俺が身をもって示したものを見て学んでいる。だから、マネキンを背にして賊を一方向に誘い込んだり、立ち位置を工夫したりして、被害を減らしている。
一番手は損だ。誰の戦いも見られない。手探りで挑むしかない。後の者ほど対策できる。それでも俺は一番手を選んだことを後悔しなかった。一番が気持ちいい。それに自分で試して掴んだものは、見て覚えたものよりずっと身につく。
アリアは【聖翼纏】の敏捷を活かして、マネキンの周囲を高速で動き回った。賊が回り込むより速く、先回りして防ぐ。さらに【聖光癒】でマネキンの損傷を補うような芸当まで見せた。守りに、攻めの速さと聖属性の万能さを組み合わせている。さすがだ。
カイトも堅実に守った。あいつの捌く剣は本来こういう守りの試験に向いている。攻めっ気こそ多少あるものの、どこか慣れている印象。もしかしたら以前にこのような経験があるのかもしれない。イザベルも薙刀の間合いを活かして賊を寄せつけず、健闘していた。
全員の試験が終わるとライナスが俺のところへ来る。
「ソラ。お前は一番手だった。誰の戦いも見られず、手探りで挑んだ。後の者はお前を見て対策できた。その不利は考慮すべきかもしれん」
ライナスが点数に手心を加えようとしている。一番手の不利を汲もうとしてくれているのだ。だが――。
「いらない」
俺は即座に断った。
「考慮なんていらない。俺は自分で一番手を選んだ。その結果も全部俺のものだ。不利だろうが何だろうが点はそのままでいい」
ライナスが少し目を見開いた。それから、ふっと笑う。
「……そうか。お前らしいな」
手加減された点数なんていらない。守りきれなかったという事実から目を逸らしたくない。次はもっと上手く守る。そのためにも今回の不出来は不出来のまま受け止める。
後日、総合順位が発表された。
「総合一位――アリア。三百六十六点」
武術八十七、魔法九十四、座学百、護衛八十五。今回も、文句なしの一位だ。座学が満点というのが、化け物じみている。
「総合二位――カイト、イザベル。両名、三百三十三点」
二位タイ。カイトは武術九十二、魔法八十二、座学七十四、護衛八十五。イザベルは武術八十六、魔法八十五、座学八十、護衛八十二。イザベルがついにカイトに並んだ。カイトは前回よりも武術の点数を落としている。攻めの剣を覚えたが故に、イザベルに追いつかれてしまった。ただ、イザベルも努力を重ねている。朝晩の訓練にはまだ参加できないが、体力をつけようと実技の授業は常に全力で取り組んでいる。
そして俺は――
「総合五位――ソラ。三百七点」
武術九十八、魔法九十四、座学三十五、護衛八十。
武術は単独一位だ。九十八点。カイトを抜いて、ついに頭一つ出た。魔法もアリアと並んで九十四点。座学も、三十五点まで伸びている。
護衛も八十点。褒められた点数ではないかもしれないが、最低限はもぎ取った。
順位は五位のまま。だが、内訳は前と違う。武術で頭一つ抜けた。座学も少し上がった。それでも護衛という新しい壁が俺の前に立ちはだかっている。強いだけでは守れない。今回の試験でそれを思い知った。来月には貴族科との合同訓練がある。それまでの間、もっと護衛のことを学ばなければならない。そう心に決め、一人素振りを始めた。
♢
順位が発表された日の夕方。
俺が廊下を歩いていると、前方にカイトとワフェルの姿が見えた。
ワフェルがまた何か言っている。今度は試験の結果についてだろう。二位タイ。灼星柱の娘に並ばれたという事実があの男には我慢ならないらしい。
「二位タイだと? お前は何をやっている。灼星柱の娘ごときに並ばれるとは僕の顔に泥を塗る気か」
「……申し訳ございません」
「来月こそ、結果を出せ。いいな」
「はい、ワフェル様」
カイトはいつもの偽りの笑みを浮かべて頷いている。さっきの結果もワフェルにとっては叱責の材料でしかない。カイトの剣が殻を破ろうともがいた末の二位タイだということなどあの男には関係ないのだ。
俺は足を止めた。
昨日の夜、部屋で見たカイトの顔を思い出す。剣を交える時に見せる、あの本物の笑み。境遇を語り合った時の暗闇の中の素の表情。あれがこいつの本当の顔だ。
なのにワフェルの前ではまた作り物の笑みに戻ってしまう。あの主の前ではカイトは自分を殺して、ただ従順な従者を演じる。波風を立てないように。何かに縛られているみたいに。
もったいない、と思った。
カイトの本物の笑みは悪くない。剣を交えている時のあの楽しそうな顔。あれをもっと見たい。作り物の笑みじゃなくて本物の方を。
どうすればあいつはあの顔のままでいられるんだろう。ワフェルとの間に何があるのか。カイトが何に縛られているのか。俺にはまだ何も分からない。
ただ、一つだけ思う。いつかあいつが偽りの笑みを脱ぎ捨てて、本物の顔で笑える日が来ればいい。そう願わずにはいられなかった。
ワフェルとカイトが廊下の角を曲がって消えていく。俺はその背中をしばらく見つめていた。




