第34話 拳
翌朝。
正規授業が始まる前、アリアがライナスを見つけて駆け寄った。俺もその後ろについていく。
「ライナス先生。ペアの解消をお願いしたいのです」
「理由は?」
「課外授業で成果が出ないからです。私の指導が相手に届いていません」
アリアは相手に問題があるとは言わなかった。エイガーがべたべた触れてくることも一切口にしない。ただ成果が出ないとだけ言う。
ライナスはあっさり頷いた。
「いいだろう。ペアの変更は俺の裁量でできるし、色々な者と組んだ方が様々な経験を積める。理由は問わん。新しい相手は追って決める」
拍子抜けするほど簡単に通った。アリアの肩からほんの少しだけ力が抜けるのが横から見てわかる。
これで一件落着――そう思った時、エイガーがこっちを睨んでいるのが見えた。会話の内容が聞こえたのだろう。面白くないという顔をしている。だけどもう決まった事。互いに新しいペアを探せばいいだけだ。ただ、それだけのはずだったのに……この男がとんでもないクズだとはまだ知らなかった。
♢
昼休み。
俺が食堂から戻ると、廊下の隅でエイガーがアリアに詰め寄っていた。
「ペアを解消したいって本当か? なんでだよ」
「成果が出ないからよ。それだけ」
「俺のどこが不満なんだ?」
アリアが冷静に突き放す。だがエイガーは引かない。へらへらと笑いながら一歩踏み込む。
「なあアリア、勉強なんてどうでもいいだろ。俺とお前さ、身体の相性は絶対にいいぜ」
エイガーがアリアの手首を掴んで引き寄せ、顔を近づける。
「離してっ……!」
アリアが振り払おうとする。だが力で押さえ込まれて振りほどけない。【聖翼纏】を使えば一瞬で吹き飛ばせるはずなのに、校内で魔法を使えば連帯責任になる――それを考えてアリアは魔法を使えずにいる。
その光景を見た瞬間――腹の底がかっと沸く。
昨日感じたあのざらつきが一気に燃え上がる。理由なんて分からない。気づけば体が動いていた。俺は無言でエイガーの手首を掴んだ。アリアを掴んでいる手を。
「離せ」
自分でも驚くほど低い声が出た。
「あ? なんだお前?」
エイガーが振り払おうとする。だが俺の手はびくともしない。掴んだ手首を万力みたいに固定する。膂力が違う。こいつと俺とでは鍛え方が違う。
「嫌がっているだろ」
「は? ペアの問題にお前は関係ないだろ。引っ込んでろよ」
「ペアは解消された」
「うるせぇっ!」
エイガーがアリアの手首を離して、今度は俺に殴りかかってきた。拳が顔に向かって飛んでくる。
避けない。
頬で受けて大げさに首をねじる。衝撃を和らげるためだ。いくら膂力が違うと言ってもエイガーは騎士科に入学して来た男。まともに喰らえば膝は砕ける。
エイガーの顔が初めて引きつった。手応えのなさに何かがおかしいと気づいたんだろう。だが遅い。
一発だけ返す。
拳をエイガーの腹に入れる。手加減はした。殺す気はない。骨も折らない。それでも――エイガーは「がはっ」と息を吐いて膝から崩れ落ちた。地面に蹲って動けなくなる。
剣も魔法も使っていない。ただの拳だ。それでも天と地ほどの差を思い知らせるには十分だった。
「次はない」
蹲るエイガーを見下ろしてそれだけ言い捨てる。
騒ぎを聞きつけてライナスが来た。
蹲るエイガー。見下ろす俺。青ざめたアリア。遠巻きの生徒たち。ライナスはその光景を一目見て状況を察したらしい。
周りの生徒から事情を聞く。アリアからも話を聞く。エイガーがアリアの手首を掴んで迫ったこと。俺がそれを止めて殴ったこと。
ライナスの目が鋭くなる。
「エイガー。女が嫌がっているのに手首を掴んで迫った。これは騎士の風上にも置けん行為だ。謹慎処分とする」
エイガーが蹲ったまま、何か言い返そうとしてできずにいる。腹を押さえて呻くだけだ。
そしてライナスの目が俺に向く。
「ソラ。理由はどうあれ手を出したのは事実だ――」
ライナスが何を言うのかすぐに分かった――連帯責任。問題行動を起こせば同室の者にも罰が及ぶ。俺の同室はカイト。あいつは何も関係ない。なのに俺のせいで罰を受けるかもしれない。
「カイトは関係ない。罰なら俺だけが受ける」
俺は即座にそう申し出た。ライナスが少しだけ目を見開くが首を振る。
「……連帯責任とはそういうものだ。とりあえずお前には居残りで雑務を課す。カイトの沙汰については後日言い渡す」
エイガーの謹慎処分と比べれば雑務なんてどうということはない。ただ関係のないカイトを巻き込んでしまったが、不思議とそこまで悔いはない。同じ場面があったら何度でも俺は同じことをやる自信がある。仲間を守るのは当然のことだ。カイトにはその度に謝ればいい。
ライナスがエイガーを医務室に運ぶよう他の生徒に指示する。アリアが俺の隣に来て何か言いたそうにしている。だが言葉にならないらしく、ただ俺の頬――エイガーの拳を受けた場所を心配そうに見ていた。
「平気だ。蚊に刺された程度だ」
「……無茶しないで」
「無茶はしてない。当然のことをしただけだ」
「……ありがとう」
【聖光癒】の光を灯したアリアの白い手が、俺の頬に触れる。
痛みが和らぐ以上に、なぜか心が落ち着いた。
♢
その日の放課後。雑務を終えた俺をライナスが人気のない中庭の隅に呼び出した。また叱責の続きか。そう思って身構える。
「さっきのは表向きの裁定だ。ここからは俺個人の話だ」
ライナスがそう前置きして腕を組む。
「ソラ、よくやった」
「……は?」
「女が嫌がっているのを助けた。しかも相手を再起不能にするでもなく、ちゃんと手加減した。腹に一発だけ。やろうと思えばもっとやれただろう。それをしなかった」
ライナスの声に叱責の色はない。むしろどこか感心しているような響きがある。
「そして咄嗟に同室の仲間を庇った。自分が殴った直後に真っ先にカイトの心配をした。あれはなかなかできることじゃない」
ライナスが俺の肩を軽く叩く。
「騎士ってのは強いだけじゃ務まらん。誰かを守るために拳を握れるか。守った後に巻き込んだ者を気にかけられるか。お前にはそれができる……まあ、殴ったやり方そのものは減点だがな」
最後に少しだけ笑って、ライナスは背を向ける。
「このことは内緒だ。表向きは俺はお前を叱った。それとカイトへの沙汰はなし。だが誰にも――当事者のアリアとペアのイザベル以外には言うな」
そう言い残して、ライナスは去っていった。
俺は少し照れくさかった。ヴォリトやガレスとは違う。だがこの人もちゃんと見ている。強さの中身をちゃんと見ようとしている。悪くない先生だ。
♢
夜。寮の部屋に戻る。
カイトが下の段にいた。俺が入ると顔を上げて笑う。
思えばこいつとまともに口をきくのはこれが初めてだった。入学してからずっと同じ部屋にいるのに一度も言葉を交わしていない。二段ベッドの上下だって話して決めたわけじゃない。あいつが先に下の段に荷物を置いていたから俺が上になった。それだけだ。
「悪かった」
俺はベッドに鞄を置きながらそう切り出した。
「お前を巻き込むところだった。俺が手を出したせいで」
カイトはきょとんとしてからいつもの笑顔で答えた。
「エイガーの件? 気にしないでよ。むしろ庇ってくれたんだろ? ありがとう」
柔らかい笑顔だった。当たり障りのない感じのいい笑顔。
だが――俺はその時、初めてこいつの顔を正面から見た。そして引っかかった。
笑っている。確かに笑っている。口元も、目尻も、ちゃんと笑みの形をしている。なのに――その奥が笑っていない。
うまく言えない。だが俺の直感が告げている。こいつの笑顔は本物じゃない。柔らかい笑顔の下に別の何かを押し込めている。鍵をかけて見えないようにしている。そういう笑い方だ。
俺は人の心の機微には疎い。アリアにもよく言われる。だが、こういう匂いみたいなものだけはなぜかわかる。強い相手の匂いが分かるのと同じだ。こいつは何かを隠している。
「……お前、いつも笑ってるな」
「よく言われるよ」
カイトはやっぱり笑っている。
俺は深く追及しなかった。そういうことに踏み込むのは得意じゃない。それに初めて口をきいた相手だ。いきなり踏み込むことでもない。ただ覚えておく。こいつの笑顔は本物じゃない。それだけは頭の隅に置いておく。
♢
翌日。
アリアはペアを探さなければならない。
だが、問題が起きた。
生徒たちは初日に全員がペアを見つけていた。エイガーと解消したアリアはこのままでは宙に浮く――かと思われた。だが、現実は逆だった。
「アリア! 俺と組んでくれ!」
「いや、俺と組もう! 今のペアは解消する!」
「アリア様、ぜひ俺と!」
他の生徒たちがこぞって自分のペアを解消し始めた。一位のアリアと組みたい連中が今あるペアを捨ててまで、我先にと群がってくる。昨日エイガーが俺にぶっ飛ばされたのを見ていたはずなのにそれでも止まらない。それだけ生徒たちは必死なのだ。一位のアリアから指導を受けてもっと強くなりたいと。
ただアリアが困惑している。エイガーのような奴をまた引くかもしれない。これも人を見極めるテストなんだろう。だがそんな理屈より先に俺の体が動いていた。俺はそいつらの群れを掻き分けて、アリアの前に立った。
「アリア、お前は俺たちの所に入れ」
俺とイザベルのペアにアリアを加える。三人グループだ。慣れればグループを作ってもいいとライナスは初日に言っている。
男子たちからは殺気にも似た視線が突き刺さる。
「二十四位が一位と三位と組めるわけないだろ!」
「アリア、こいつは絶対に問題行動を起こす! やめておけ!」
「俺の方がアリアを幸せにできる!」
数人の男子生徒が喚く。
だが、アリアの決断は早かった。視線を正面に立つ俺からイザベルに移す。
「私が入ってもいいの?」
イザベルが肩をすくめた。
「いいわよ。むしろ助かるわ」
「助かる?」
「正直、私一人じゃソラの石頭に軍略を詰め込むのは骨が折れるもの。アリアがいれば二人がかりで教えられる。それに――」
イザベルがちらりと俺を見る。
「ソラから武術を教わるのも正直さっぱりだったしね。ぐわっと出すじゃ、何も分からないわ。通訳が必要ね」
イザベルが苦笑する。教える方も教わる方も噛み合わなかった。だからアリアが加わればその負担が減る。イザベルの顔にほんの少しだけ安堵の色が滲んでいる。
アリアが少し驚いた顔で俺を見て、それから髪留めに触れた。
「じゃあ、二人ともよろしく」
こうして俺とアリアとイザベルの三人で課外授業をすることになった。
その日の放課後。三人での最初の課外授業。
アリアとイザベルが二人がかりで俺に戦略兵法を教える。アリアは論理的にイザベルは実戦的で教え方は違う。だが二つの角度から教わると不思議と少しだけ頭に入る……ほんの少しだけだが。
「鶴翼の陣は、敵を包み込む陣形」
「ええ。でも数で劣ると逆に包まれるから注意が必要よ」
「両側から教えられるとちょっとは分かる気がする」
「『ちょっとは』なのね……」
二人が同時にため息をついた。息が合っている。
今度は俺が二人に武術を教える番だが、相変わらず擬音だらけで二人を困らせる。
「だからこう、ぐっと来たら、ばっと返す」
「それで分かるわけないでしょう」
「ソラ、あなた本当に教えるのが下手ね」
二人がかりで呆れられる。でも悪くない。
日が暮れるまで教室には三人の真剣さを宿した言い合いが響いていた。




