第33話 噛み合わない
翌朝。
朝練を終えて湯浴びを済ませ、食堂棟へ向かう。トレーを手に取って大皿の前を回る。ありったけの肉に小鉢の野菜を片っ端から取っていく。ほうれん草のソテー。ブロッコリーのボイル。青菜の和え物。豆の煮物。トレーの上が緑で埋まっていく。
席に着くと、向かいに座ったアリアが俺のトレーを見て固まった。
「あなた……どうしてそんなに野菜を食べるの」
「食えば脳が良くなるんだろ。お前が言った」
「言ったけど、そんなに食べたら――」
「お前が言った」
「…………」
なぜか困惑した表情でアリアが口を閉じる。
俺は黙々と野菜を口に運ぶ。座学をしなくて済むならブロッコリーの百や二百、いくらでも食ってやる。緑だろうが土の味がしようが関係ない。これで座学から解放されるなら安いものだ。
「……野菜を食べても、座学ができるようになるわけじゃないのよ」
「は?」
「いえ、何でもないわ。食べることはいいことよ。うん」
アリアが目を逸らして自分の食事に戻る。何か言いかけたが飲み込んだらしい。まあいい。緑を食えば賢くなる。それでいいんだ。
♢
午前の正規授業。王国史、戦略兵法、基礎数学、地理。
相変わらず座学は地獄だ。あれだけ野菜を食ったのに文字は目の前を素通りしていく。教師の言葉が右の耳から入って左の耳から抜けていく。
唯一、実技の時間だけは生き返る。武術では教官を押し込み、魔法は精度こそそこそこだが魔力量で押し切る。体を動かしている時の俺は誰にも負ける気がしない。
だがそれだけだ。剣を置いて机に向かった途端、俺は最下層に逆戻りする。実技と座学のあいだに横たわる深い溝が俺の順位を縛りつけている。
♢
午後。課外授業。
イザベルとの空き教室。今日は魚鱗の陣と新しく鶴翼の陣を教わる。
だが、昨日やっと覚えた鋒矢の陣すら一晩で半分抜けている。
「昨日やったでしょう。鋒矢の陣は?」
「……尖ってるやつ」
「それは覚えてるのね。じゃあ魚鱗の陣は?」
「……うろこ……の……何か」
「何かじゃ点にならないのよ」
イザベルの眉が少しずつ寄っていく。昨日は根気強く笑っていたが、今日は同じことを三度繰り返しても入らない俺に苛立ちが滲み始めている。
「ソラ。あなた、本当に覚える気ある?」
「ある。死ぬほどある」
「じゃあなんで――」
「分からないだけだ。やる気はある」
ふざけているわけじゃない。剣の動きなら一度見れば盗める。なのに文字と図形は何度見ても頭から滑り落ちていく。やる気と結果がまるで噛み合わない。
イザベルがため息をつく。だが投げ出さない。
「……教える側が先に音を上げたなんて言われたくないわ。もう一回。鶴翼の陣はこう――翼みたいに左右に広げて敵を包み込む陣形よ」
イザベルが言い方を変えて、図を変えて、具体例を変える。イザベルの父である灼星柱アゼルが実際の戦で使った話を交えてあの手この手で軍略を俺の頭にねじ込もうとする。
俺も必死だ。剣を振る時と同じ集中力で何度も何度も繰り返す。覚えられないなりに食らいついて離れない。
二人とも不器用なやり方で噛み合おうとしている。だがなかなか噛み合わない。それでもどちらも投げ出さない。
短い休憩を挟んで、今度は立場が逆になる。
俺がイザベルに武術と魔法を教える番だ。指導実績のためにも教える側に回らなきゃならない。
イザベルは纏系の【灼纏】を使うが、出力が低くて完成度に欠ける。だから俺に聞いてくる。
「纏系の出力を上げたいの。ソラの【天翔纏】、すごい出力でしょう。どうやってるの?」
「どうって……こう……ぐわっと出す」
「ぐわっと?」
「体内の甕に蓄えている魔力をぶわーっと全身に回す感じだ」
「擬音しかないじゃない」
「感覚だ」
イザベルが、今度は別の意味で頭を抱える。
言葉が出てこない。俺は纏系を感覚で使っている。魔力をどう練って、どう全身に回して、どう硬さを出すか。全部なんとなくだ。体は分かっているのに口がまるで追いつかない。
「あなた、自分が何をやってるか分かってないの?」
「分かってる。やってるんだから。ただ言葉にできないだけだ」
「それを言葉にするのが指導でしょう」
「…………」
黙るしかない。剣も魔法も体は完璧に分かっている。なのにそれを人に伝える術がない。
「噛み合わないわね」
イザベルが苦笑する。教わる方も教える方も俺は不器用だ。だがその苦笑には棘がない。なぜか嫌な気がしない。
♢
夜。校庭。
一人で素振りをしていると足音が近づいてくる。振り向くとアリアだった。木剣を持っているが、いつもの凛とした顔じゃない。どこか疲れている。
「どうした?」
「別に」
アリアが隣に立って素振りを始める。だがいつもの切れがない。心ここにあらず……という感じだ。
しばらく二人で黙って剣を振る。
俺が先に口を開いた。
「エイガーと上手くいってないのか」
アリアの手が止まる。少し驚いた顔をしている。俺が他人のことに気づくのが珍しいんだろう。
「……気づいてたの」
「窓から見えた。あいつお前にべたべたしてた」
「…………」
アリアが小さく息を吐く。
「あの人、勉強する気がないし、強くなろうともしないの。私の成長にも繋がらないし、指導実績にもならない。時間の無駄よ。だからペアを解消するわ。ライナス先生に申し出れば変えられるもの」
「そうか」
「ええ。明日、先生に話す」
俺はしばらく考える。だが気の利いた言葉なんて出てこない。絞り出した言葉がこれだった。
「俺がぶん殴ってやろうか」
「やめて。私まで連帯責任になるわ」
「冗談だ……半分は」
「半分は本気なのね」
アリアが少しだけ笑う。さっきまでの疲れた顔がほんの少しだけ緩んだ。
俺は剣を構え直す。
「アリア。打ち合うぞ」
「今から?」
「お前、消化不良の顔してる。剣を振れば少しはマシになる」
アリアが少し考えて、それから木剣を構えた。
「……ええ。お願い」
二人で打ち合う。金と銀の光はない。ただの木剣の打ち合いだ。だが互いに本気。木がぶつかる音が夜の校庭に響く。
打ち合っているうちにアリアの顔から迷いやが消えていく。エイガーのことも剣を振っている間は忘れられるんだろう。これだ。アリアにとっても俺にとっても結局は剣がすべてを整理してくれる。
しばらく打ち合って二人とも息が上がる。
「少しはスッキリしたか」
「……ええ。ありがとう」
「礼はいらない。俺もスッキリした」
月明かりの下で息を整える。アリアのナイトクローラーの髪留めが月光を弾いて光った。
エイガーのことも、俺の座学も、イザベルへの指導も、何も解決していない。今日一日、何ひとつ片付いていない。
だがアリアと隣に並んで剣を振ればすべてが吹き飛ぶ。
ふと思う。
アリアが他の男とペアを組んでいるのがなぜか落ち着かない。エイガーがアリアにべたべた触れているのを窓から見た時、腹の底がざらりとした。あれは何だったのか。
ただ今は心地いい。スッキリしている。どうしてだ? それでも俺は考えるのが得意じゃないから答えは出ない。だからやることは一つだけ。
「もう一本やるぞ」
「いいわ。今度は私が勝つ」
月明かりの下、二人の剣が何度も交わり続けた。




