第16話 ☆手紙☆
朝の届け物の中に、見覚えのある筆跡があった。少し右に傾いた、丁寧で控えめな筆運び。母の字だ。封を切る指先に力が入るのが、自分でわかる。
――アリアへ。
『お元気ですか。こちらは少しずつ秋が深まってきて、領地の木々も色づき始めています。庭師のエルンに先月で暇を出しました。父が自分で庭の手入れをしていますが、慎れないことなので大変そうです。ベルント家の晚餐会にも、今年は招待が届きませんでした。仕方のないことです。あなたが騎士として功を立ててくれれば、いつかまた家の名を取り戻せるかもしれません。焦らなくていいのです。でも、母は信じています。体には気をつけて。無理をしないで』
手紙を読み終えて、膝の上で紙を畳む。窓の外からいつもと変わらない朝の喧騒が聞こえてくる。この街は何も知らない。セレスティア子爵家が少しずつ痩せていっていることも、この手紙を読んだ私の指が震えていることも。
焦らなくていい、と母は書いている。でもその行間に滲んでいるものを、私は読み取れる。庭師を手放したということは、もう人を雇う余裕がないということ。あのプライドの高い父が自分で庭を手入れしている。ベルント家の晚餐会に招かれなくなったのは、セレスティアの名がもう社交の場で通用しないということだ。かつて王都の宮廷にすら顔が利いた家が、今では地方の晚餐会からも外される。
手紙を引き出しの奥にしまって、背筋を正す。こんなことで揺らいでいる暇はない。私がやるべきことは最初から決まっている。強くなって、功を立てて、セレスティアの名をもう一度この国に刻むこと。それだけだ。
髪をまとめる。ソラが作ってくれた黒い髪留めに手を触れると、ナイトクローラーの鱗の硬い感触が指先に伝わってくる。不格好で、左右非対称で、父が見たら顔をしかめるような出来。それでもこれに触れると、不思議と背中が伸びる。
――いつも通り。いつも通りにやるだけだ。
♢
巡回に出ると、隣にソラがいる。
「寒いな」
ソラが何気なく言う。
「そうね」
返事が短い。自分でわかっている。いつもならもう一言二言、余計なことを付け加えるのに、今朝は言葉の継ぎ穂が見つからない。
「今日、静かだな」
ソラが横目でこちらを見る。この人は鈍いようで、妙なところだけ鋭い。
「いつも静かよ」
「いつもはもっとうるさい」
「うるさいって何よ」
「褒めてる」
「褒め方がおかしいわ」
いつもの掛け合い。口は動いている。でも声に芯が通っていないのが自分でわかって、それが歯がゆい。ソラがまたこちらを見ている。何か言いたそうな顔をして、でも口を開かない。聞いてくれば「何でもない」と返せるのに、この人はそれをしない。ただ隣を歩いて、時々こちらを見て、また前を向くだけだ。
♢
午後の訓練で、ソラと向かい合う。
【聖翼纏】を纏って踏み込む。白銀の光が全身を包んで、体が軽くなる。いつもならここからが勝負だ。ソラの金色と私の白銀がぶつかり合って、一進一退の攻防が続く。互いに一歩も譲らない、あの張り詰めた時間が――今日は、来ない。
ソラの踏み込みが来る。受ける。腕に衝撃が走って、そのまま押し込まれる。踏ん張ろうとした足が地面を滑って、体勢が崩れた瞬間にもう一撃。木剣が手から弾かれて、石畳の上を転がっていく。
拾い上げて構え直す。もう一度踏み込む。聖翼纏の光が揺れている。魔力の流れが散漫になっているのが自分でわかる。母の筆跡が、焦らなくていいという一行が、視界の端にちらつく。集中しろ。集中しなければ。そう思えば思うほど力みが入って、剣筋が硬くなる。ソラの次の一撃を受けきれず、また木剣が地面に落ちる。三度目も同じ。
膝に手を当てて息を整えていると、ソラが剣を下ろしてこちらを見る。
「今日はやめるか」
いつもなら「まだやれる」と返す。ソラがそう言うたびに、意地でも立ち上がって「もう一本」と言い返してきた。セレスティアの娘が、この程度で膝をつくわけにはいかない。
「……ええ」
その一言が口から出た瞬間、自分自身に驚いている。ソラが何か言おうとして口を閉じるのが見えて、私は木剣を拾い上げてその場を離れる。振り返らない。振り返ったら、きっと顔に出る。私を見るソラがどんな顔をしているのかと思うと余計に振り返れない。
♢
夜、部屋の窓から月明かりが差し込んでいる。引き出しから手紙を取り出して、もう一度開く。母の文字を目で追いながら、頭の中で数える。
庭師を手放した。去年は料理番を手放している。再来年にはもう誰も残っていないかもしれない。騎士見習いの給金から毎月できる限りを仕送りしている。ソラに参考書を買ったのは私の髪の毛を売ったお金で買ったもの。私の身体にも少しの貴族の務めは残っている。
でもそんなものは足しにもならなくて、家を立て直すには武功がいる。名誉がいる。地位がいる。そのどれもが、今の私の手にはまだない。
手紙を胸の前で畳んで、目を閉じる。今日の訓練で、ソラに三本取られた。いつもなら互角の相手に、一本も返せなかった。あの程度の動揺で剣が鈍るようでは、戦場で功を立てるどころではない。
――情けない。
セレスティアの娘がこの程度で揺らいでどうする。父も母も、私を信じて送り出してくれた。その期待に応えるために、ここにいる。手紙一通で心が折れるような器では、何も守れない。
手紙を引き出しに戻して、立ち上がる。廊下に、聞き慣れた足音がする。中庭に出る扉が開いて閉まる音。ソラだ。毎晩、素振りをしに出ていく。いつもならそのまま放っておくのに、今夜は足が勝手に動いている。
♢
中庭に出ると、夜気が冷たかった。月明かりが石畳を青白く染めていて、自分の影だけが足元に落ちている。
ソラが月明かりの下で素振りをしている。金色の魔力が木剣にうっすらと纏わりついていて、一振りごとに淡い光が尾を引く。何も考えていないような、それでいて全身が剣に向かっているような。この人はいつもそうだ。迷いがない。まっすぐで、愚直で、どこまでも止まらない。
足音に気づいたのか、ソラが振り返る。
「……眠れないの?」
自分の声が思ったより小さくて、少し腹が立つ。
「お前こそ」
「少し、外の空気が吸いたかっただけ」
ソラが木剣を下ろして、中庭の壁に寄りかかる。私もその隣に立って、壁にもたれる。少し距離を空けて。
ソラは何も聞いてこない。朝の巡回でも、午後の訓練でも、そして今も。何があったのかを、一度も聞いてこない。もし聞かれたら「何でもない」と答えて、いつも通りを貫く準備はできていた。でもソラは聞いてこない。だから「何でもない」と言い切る場面すらない。
長い沈黙の後、ソラが空を見上げたまま口を開く。
「明日も剣振るぞ」
慰めでも、詮索でも、気遣いでもない。ただ、明日も同じことをやるというだけの、いつも通りの一言。なのに、胸の奥で何かがほどけるのがわかる。明日も剣を振る。明日もこの人が隣にいて、いつもの掛け合いがあって、いつもの訓練がある。それだけのことが、手紙を読んでからずっと強張っていた背中を、ほんの少しだけ緩めてくれる。
「……ええ」
声は震えていない。ソラがこちらを見る気配がして、でもすぐに視線が離れる。この人のことだから、たぶん半分くらいは気づいている。でも聞かない。それがこの人だ。
壁にもたれたまま、夜空を見上げる。北の空は澄んでいて、ずいぶん遠くまで見える気がした。
明日はもう一本も落とさない。明日はソラの剣を全部受けきる。セレスティアの娘は、手紙一通で折れたりしない。
もう迷わない――私がそう決めたから。
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