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第113話 試合に負けて勝負にも負ける?

「……今、なんと?」


 審判が聞き返してくる。剣を鞘に納めたまま、俺はもう一度言った。


「参った。俺の負けだ」

「し、しかし、お前は今――」


 審判は本気で困惑しているらしい。無理もなかった。優勝すれば白金貨三枚と、商館の権利と、関税の免除と、それから副賞。一生遊んで暮らせるだけのものが目の前に転がっているのに、それを放り出す理由が見当たらないのだろう。


「降参はいつでもできるはずだ。相手が降参するか、場外に出るか、動けなくなれば終わり。受付でそう聞いた……違うか?」

「い、いや、その通りだが……」

「第一試合でジャックスの相手が始まった直後に降参した。二回戦では二人が試合前に棄権した……あれが認められて、これが認められない理由はあるのか」


 審判が口を開いて、そのまま閉じる。


 俺は膝をついたままのミレイユを見下ろした。この女はまだ、何が起きたのか分かっていない顔をしている。


「俺はこいつの覚悟に負けた。それだけだ」


 しばらくして、審判が片手を上げる。


「しょ、勝者! アクエリス公国近衛騎士、ミレイユッ――!」


 その瞬間、コロシアムが割れた。歓声ではなく罵声だ。八百長だと叫ぶ声、金を返せと叫ぶ声。俺に賭けていた者が大多数だったのだから、当然といえば当然だろう。


 それを浴びながら貴賓席の方を見ると、大公が苦虫を噛み潰したような顔をしていた。その近くでアリアが頷いている。それだけで十分だった。


 石段を降りようとした時、後ろから声がかかった。


「お待ちください」


 ミレイユが立ち上がっている。宙を舞った剣を拾って、鞘に納めていた。


「……なぜ、このようなことを?」

「言っただろう。仲間が欲しい」

「それは――私奴が優勝すれば、この輪が外れる。輪が外れれば、私奴は自由の身になる。そうなれば――」

「誘える」


 ミレイユが息を呑む。


「そのために、勝ちを捨てたのですか?」

「勝ちは捨てていない。欲しいものを取っただけだ」


 こいつがしばらく黙って、それから深く頭を下げる。


「……ありがとうございます」


 顔を上げたその目はまっすぐだった。


「行けません」


 分かっていた答えだった。


「公女様方をお守りしなければなりません。あのお二人の身の安全が確保されない限り、私奴はどこへも行けない……それだけは、譲れません」

「そうか」

「ですが――」


 ミレイユが胸に手を当てた。


「もし、あのお二人が安心して暮らせる場所が見つかったなら。その時はこの恩を返しに参ります。必ず」


 悪くない。断られはしたが、繋がりは残った。第一、この女が主を放り出して来るような奴なら、ここまでの勧誘はしなかった。


「分かった。待っている」


 それだけ答えて、俺は石段を降りた。





 表彰の儀はリングの上で行われた。大公が降りてきて、五万の観客に向かって両手を広げる。罵声はまだ収まっていない。


「静粛に!」


 その一声で、多少は静まった。


「まことに、遺憾な決着であった」


 大公がこちらを一瞥する。


「来年より規則を改める。試合開始後の降参には、相応の罰を課すこととしよう。そして、此度の賭けについてであるが、決勝に賭けた者へは、当選者に満額を支払う。加えて、外れた者にも掛け金の半分を返そう。此度の決着は、我が国の興行としてふさわしくなかった。その責は主催たるわしにある」


 どよめきが起きて、それが歓声に変わる。


 なるほど。損を被って見せることで、器量を示すわけか。


「では――優勝者、ミレイユよ」


 ミレイユが跪いた。


「約定の通り、賞金と副賞を与える。そして、そなたの隷属を解く」


 大公が手を上げると、黒い布を頭に巻いた男が進み出てくる。奴隷商だ。あの爺さんとは別人だが、同じ格好をしている。


 男がミレイユの首輪に手をかざすと、刻印が淡く光って、鉄の輪が真っ二つに割れて落ちた。コロシアムが沸く。


 大公は自分では触れない。隷属性の使い手だという噂を確かめられる絶好の機会だったが、この男は決して人前で術を使わなかった。





 その夜、祝勝会に招かれた。優勝者と、その関係者と、賭けで大きく動いた者。俺とアリアはその両方に当てはまるらしい。


 大公の屋敷の広間はコロシアムとは別の意味で目が痛かった。天井から吊るされた灯り、壁の織物、卓に並ぶ皿の数。金がかかっているのが俺にも分かる。


 ミレイユは首輪のない姿で双子と一緒に隅の方にいたが、双子は途中からそのそばを離れた。


「あの、アリア様」

「よければ、話でも」


 いつの間にか二人がアリアを囲んでいる。この二人は女といる方が落ち着くらしい。ずっとミレイユを頼りにしてきたのだから、当然かもしれなかった。


「アリア様はどのような髪の手入れをなさっておりますの?」

「特別なことはしていないのだけれど……」

「嘘だぁ。絶対なんかしてるって」

「本当よ? 強いて言えば、水をよく使うくらいかしら」

「まぁ! わたくしたち、水は得意ですのよ!」


 アリアが困った顔をしながらも、まんざらでもなさそうにしている。こいつは弟がいるからか、年下の扱いが上手い。


 俺はというと、話しかけてくる者はいなかった。それどころか腫物を見るかのように、白い視線が飛んでくる。


 このまま何事もなく終わる。そう思っていた時だった。


「――おい、大公さんよぉ」


 ロールの声だった。


 卓の向こうで、大公が振り返る。


「あんた、約束は守るんだな。感心したよ」


 その首には確かに輪がない。副賞として引き渡されたのだから当然だった。


「でも、覚えておけよ。いつか必ずお前を――」


 そこで言葉が途切れた。ロールの手が胸を押さえ、膝が折れて、そのまま床に崩れる。


「ロール!?」


 リールが駆け寄り、ミレイユが卓を蹴倒す勢いで走ってくる。ロールは声も出せずに、胸を掻きむしるようにして体を丸めていた。


 そして、大公が笑った。


「言い忘れておったわ」


 大公は酒杯を置きもしない。


「そなたら二人の心臓にはな、鎖が巻かれておる」

「……鎖?」


 ミレイユが顔を上げる。


「【隷鎖縛サーヴァス・チェーン】と申してな。首の輪などとは比べ物にならん代物よ。あれは外から嵌めるもの、これは内から縛るもの……外し方を知る者はこの国にはおらん」

「いつ……いつ、そんなものを?」

「奴隷となった日に決まっておろう」


 大公が指輪を撫でる。


「契約というものはな、口頭だけで決まるものではない。書面に書いてあることをよく読まぬ者が悪い……そなたらは確かに判を押したのだ。自らの手で」


 リールの顔から血の気が引いている。ミレイユが剣に手をかけようとして、その手を止めた。抜けばロールがどうなるか分からない。この男はそれを分かった上で笑っている。


「さて、どうする?」


 大公が椅子に深く座り直す。


「そなたらは自由の身よ。首輪もない。どこへなりと行くがよい……もっとも、わしが望めば、いつでも心臓は止まるがな」


 同じ生活が続く。いや、同じではない。首輪があった頃は少なくとも大公にとって商品だった。商品は傷つけられない。だが、自由の身になった今、大公がこの三人を守る意味はない。


 ミレイユが膝をついた。歯を食いしばって、大公の前で膝を折っている。


「……お許しください。どうか、お許しを」

「ほう。だったら、もう一度お主の首に輪をかけるか?」

「……それで公女様方の命が救われるのであれば、御意に」


 リールが泣いている。ロールはまだ床で丸まったまま動けない。


 この男を斬れば終わる。だが、斬った瞬間に二人の心臓が止まるかもしれない。


 どうする。考えろ――その時、隣を白い外套が通り過ぎた。


「失礼いたします」


 アリアが床に丸まったロールの前に膝をつく。


「ごめんなさいね。どこに何が仕込まれているのか分からなかったから、今まで使えなかったの。でも、もう大丈夫だから」


 何を言っているのか、周りには通じていない。だが、俺には分かった。


「アリア。できるのか?」

「ええ、場所が分かるもの」


 アリアがロールの襟元をわずかに緩め、手を忍ばせて、心臓の上に掌を当てる。直に触れなければ届かないのだろう。それから、目を閉じた。


「【聖解隷サンクト・リベラ】!」


 白い光がロールの衣の中から漏れ、ロールの体が一度大きく跳ねる。


「……あ」


 ロールが目を開けて、自分の胸に手を当てる。


「痛く……ない」

「もう大丈夫よ」


 アリアが立ち上がって、今度はリールの前へ行く。同じように掌を当てて、同じ言葉を唱えた。白い光が二度目に広がった時、広間は静まり返っている。


「……馬鹿な!」


 大公が立ち上がる。指輪を撫でていた手が、卓の縁を掴んでいた。


「貴様! 何をしたっ!?」

「お二人を縛っていたものを祓わせてもらいました。商品に傷があっては、授けた大公様の名前に泥を塗ることとなってしまいますから」


 大公の顔が歪む。それから、この男は広間中に向かって怒鳴った。


「捕らえよ! その女とそこの小僧を捕らえよ!」


 誰も動かない。当たり前だ。この広間にいるのは闘技大会出場者と貴族と商人と、その連れだけで、ここにいる誰よりも強いのは俺だ。


 誰もが顔を見合わせて、足が動かない。その中で一人だけが前に出た。


「小生でよろしければ」


 ジャックスがシルクハットを外して胸に当てる。その顔に浮かんでいるのは、あの時と同じものだ。


「ソラ様。もう一度、お相手願えますか?」

「ジャックス、一つ聞く。お前も縛られているのか?」


 しばらく黙ってから、ジャックスは静かに頷く。


「はい。この身も、心臓を鎖に」


 自らの意志で仕えているとミレイユは言っていたが、そうではなかった。


「なら、外してやる」

「は……?」

「その代わり条件がある。俺と戦いたいなら天聖隊に来い。毎日訓練をつけてやる」


 ジャックスが目を見開く。


「毎日……ですか」

「毎日だ。朝と夜にやる。俺の稽古は厳しいぞ」

「――参ります」


 即答だ。大公の顔色が変わる。


「待て! ジャックス、貴様――!」


 大公の指が動いた。何かを絞るような動きだ。


 だが、それより早く、白い光が広がっていた。アリアがいつの間にか、ジャックスの胸に手を当てていた。


「【聖解隷サンクト・リベラ】!」


 ジャックスが胸を押さえて、それから顔を上げる。


「……おや、軽い。実に軽い。これなら百人どころか、千人は切り刻めそうです」


 執刀メスを握って、酷く歪んだ笑みを見せるジャックス。


 その瞬間、広間から人が消えた。


 悲鳴を上げ、押し合いへし合いしながら、闘技大会参加者も貴族も商人も出口へ殺到する。卓が倒れ、皿が割れ、それを踏み越えて誰もが逃げていく。


 ジャックスを縛るものがなくなった。それが何を意味するのか、この国の人間はよく知っているらしい。


「……おのれ」


 大公が卓に手をついて、こちらを睨んでいる。


 俺は剣を抜こうとしたが、その袖をアリアが引いた。


「ソラ、私に任せて」


 アリアが前に出て、大公に向かって外套の裾を掴み、片足を後ろに下げて、軽く頭を下げる。貴賓席で貴族たちに見せていたのと、同じ所作だった。


「ヴェルディアン大公閣下。此度はまことに失礼をいたしました」

「……なにを、今さら」

「詫びの品をお納めいただきたく存じます」


 アリアが袋を卓に置くと、硬い音が鳴る。中身が見えるように口を開くと、ヴェルディアン白金貨が三枚と、大金貨と金貨がぎっしり詰まっていた。


「この国で得たものは、すべてお返しいたします。加えて――」


 もう一つ、小さな袋が置かれる。


「星国製の白金貨を一枚。閣下との賭けに使用した物でございます」


 大公の目が袋に落ちる。


 俺はそれを横から見ていて、一つ引っかかった。ヴェルディアン白金貨が一枚多い。こいつが決勝の前に持っていた白金貨は二枚。三枚目はどこから出た?


「私どもは明日にはこの国を発ちます。西方諸国の者たちには、この場のことも口外いたしません。閣下のご威光に傷はつきません」

「……ふん」


 忌々しげに鼻を鳴らす大公。


 そこにミレイユが畳みかける。


「私奴が得た賞金も副賞も、すべてお返しいたします。公女様方以外は」


 アリアが置いた袋の隣に、まだ手付かずの白金貨三枚と、証書や権利書をミレイユが並べる。


 大公がしばらく袋を見つめてから、椅子に沈み込むように座って手を振った。


「……よかろう!」


 それだけだった。この男にとっては、それが最も損の少ない選択だったのだろう。ここで騒げば、ジャックスが解き放たれたことも、心臓の鎖のことも、全部が表に出る。金で済むなら金で済ませる。


 最後まで算盤を弾く男だった。





「さすがに今の私たちが西方諸国と表立って対立するわけにはいかないから、ああしたのよ」

「そうだったな」


 屋敷を出て通りに出たところで、俺は疑問に思っていたことを聞いた。


「白金貨は二枚だったはずだ。三枚目はどうした?」

「ふふ」


 アリアが、やけに嬉しそうに笑う。


「決勝の賭けよ」

「俺に賭けたのではないのか?」

「ええ、こんなことになるんじゃないかと思って、ミレイユさんに賭けたのよ」


 アリアがこちらを見上げて、悪びれもせずに言う。


「あなた、そういう人だもの。強さで負けるなんて一度も思っていないわ。あなたはミレイユさんより強い……でも、あなたはきっと、勝つより大事なものを見つけてしまうでしょう」


 こいつは、俺が負けることに賭けていた。


 俺の腕ではなく、俺の性根に。


 あの決勝の最中、目が合っただけで頷き返してきたのは、驚いたからではなかった。ずっと前から知っていたのだ。


「怒った?」

「……いや」

「結果的に試合に負けて、勝負にも負けてしまった。でも、それが最善策。ソラ、私はあなたを誇りに思うわ。天聖隊の一員として。添い遂げる者として」


 アリアが手を伸ばしてきたので、俺はそれを握る。

 すると、アリアが身を寄せてきて、次第に互いの顔の距離が縮まる。


 ――その時、背後から声がかかった。


「……して、小生はどうすれば?」


 振り返れば、ジャックスがついてきていた。


「……もう! ジャックス? とりあえず今日は私が稽古をつけてあげるわ!」


 なぜか、頬を膨らませて睨むアリア。


「貴女が? 御冗談を……」

「覚悟しなさい!」


 宿に戻る夜道に、アリアと新たな仲間との剣戟の音が鳴り響いた。


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ソラ懐が深すぎ(笑)
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