第111話 ジャックス・リッパ
白い衣が石段を上がってきた。
シルクハットを被ったジャックスは懐へ手を入れると、小さな刃を取り出す。
抜き出されたものを見て、コロシアムが震えた。こいつらはジャックスの実力を知っているのだろう。この男が執刀を握るとどうなるのか。そして、それが見たくて、奴らはそこに座っている。俺がこれに切り刻まれるのを。
「星国のソラ様、でしたか」
男の声は思っていたより高く、そして丁寧だった。
「小生、ジャックスと申します。短い間ですが、お見知りおきを」
「……ああ」
物腰の柔らかさに面食らった。目の奥に狂気はない。少なくとも俺には感じられなかった。こいつを何も知らずに医師と紹介されれば、信じてしまうほどだ。快楽殺人者と呼ばれる所以は、まるで感じ取れなかった。
少しの戸惑いの中、審判の合図が下された。
「――始めっ!」
合図と同時に魔法を纏う。
「【天翔纏】!」
今大会で初めて纏う【天翔纏】。
金の魔力が体を伝うと、観客席からどよめきが起きる。
「な、なんだ……あの金は?」
「あれだけはっきりとした魔力が、まとわりつくものなのか?」
「見掛け倒しだ! ジャックス! やっちまえ!!!」
どうやら観客たちは、纏系魔法を見たことがないらしい。
それはジャックスも同じようで、目を見開くが、すぐに間合いの中へ跳び込んでくる――速い。予選で百人を沈めた時よりも、明らかに速い。手刀ではなく、指の間に挟んだ小さな刃が、こちらの喉を狙って伸びてくる。
顎を引いて避けると、その手が返って肘から入ってきた。刃、手刀、肘、膝。そのすべてが繋がっている。斬れなければ打ち、打てなければ崩す。技に切れ目がない。
俺は慎重に見極める。剣を寝かせて、刃の軌道を上から押さえる。指の付け根を狙って剣を滑らせると、相手が手首を返して逃がした。返す刀で胴を薙ごうとすれば、半歩下がって間合いを切られる。
やりづらい。純粋な斬り合いであれば負ける気はしない。しかし、体術が厄介だ。
十合と続けても、互いの体に傷一つつかなかった。
やがて、ジャックスの動きが止まる。少し下がって刃を持った手を下ろしたその顔に、初めて表情が浮かんでいた。
「……驚きました」
目が見開かれている。
「小生の刃をこれほど完璧にいなす方は初めてです。西方ではお目にかかれません。失礼ですが、一つお伺いしても?」
「構わない」
「その腕前で、どなたかの下におられるのですか?」
「いや」
「では、傭兵か何かで?」
「俺の隊がある」
「ほう。それは何よりです」
ジャックスが目を細める。
「では――少々、本気を出させていただいてもよろしいでしょうか?」
「今までは違うのか」
「はい。あれでは、あなた様に失礼にあたります」
ジャックスが刃を持ち替えて、自分の左腕の袖をまくり上げた。
「小生、誤解されておりまして」
語りながら、ジャックスは刃を自分の腕に当てた。
「快楽で人を殺す男だと、街では申しますでしょう……あれは間違っております」
白い肌に線が走り、血が流れ出る。だが、それは地面に落ちなかった。
「小生が求めておりましたのは、ただ一つ。小生の全力を受け止めてくださる方でございます」
血が宙で止まっている。
滴が空中に浮かび、震えながら形を変えていく。丸みが削がれ、縁が立ち、細く、薄く、鋭く。
俺は自分の目を疑った。あれは血だ。血が、刃に――執刀になっていく。
「医師でありました頃から、探しておりました。人の体は脆い。どこをどう断てば止まるのか、小生には見えてしまう……だから、加減をいたします。加減をして、加減をして、それでも相手は壊れてしまう」
浮かんだ刃が十を超え、二十、三十と増えていく。
「一度でよいのです。加減をせずに振るってみたい。それを受け止めていただきたい」
やがて百を超えた。赤い刃が宙を埋めて、その一枚一枚がこちらへ向いている。
「ですが、どなたも受け止めてくださらなかった。ですから、ああいう結果になりました」
その声に悪びれた色はない。誇るでもなく、悔いるでもなく、ただそうなったと言っているだけだ。
だが、俺の腹の底が冷えたのは、その内容のせいではなかった。
この男が言っていることを――あの渇きを、俺は知っている。
キリトと戦うまでの一年半、俺は全力を出せる相手が欲しかった。
別に誇示しようとしているわけではない。ただ、己の訓練の成果をみたい。
それだけのことなのに、それが酷く難しかった。
俺とジャックスは、環境が違っただけだ。
もし、俺に力を発散させる場所がなければ、
もし、俺に三大極星になるという夢がなければ、
もし、俺にアリアがいなければ――
こいつと、同じことになっていたのかもしれない。
だったら、俺がこいつを止めてやる!
俺が決意すると同時、ジャックスの魔法が完成した。
「【血散刃】!」
赤が――一斉に降ってきた。
最初の一枚は金に触れた瞬間に威力が落ちた。輪郭を失って、鋭さがなくなる。金が刃の部分を喰ったのだ。
だが、全部は消えない。喰い切れなかった分がそのまま突っ込んできて、左の肩を掠めた一枚が外套を裂いた。
赤が金を裂くように迫ってくる。
――足りない。
だったら、増やせ!
「【天喰霧】!」
広範囲に金の霧をばら撒く。
さらに、心臓へ魔力を送り込み、血の流れに乗せて、体の中で高速に回す。
纏と氣に霧。三つ同時。これが今の俺の全力!
金が濃くなった。降ってくる赤が霧に触れた端から輪郭を失っていく。
【天喰霧】に喰われた【血散刃】は、俺に届く頃には鋭い部分がすべて喰われ、球体のような形となっていた。これならば、いくら当たっても痛くはない。
中には多少の鋭さを残すものもあったが、それらすべてを叩き落とす。
叩き落とすたびに赤の物体が霧のように飛び散り、それが金に喰われ、跡形もなくなる。
一つも避けない。
こいつは受け止めてほしいと言った。ならば、一枚残らず受け止めてやる。
自分を目掛けて飛んでくるものすべてを、霧散させる。
五十枚を超えたあたりで数えるのをやめ、最後の一枚を叩き落として顔を上げると、コロシアムは静まり返っていた。
五万の人間が、誰一人として声を出していない。石の壁の上に並んだ顔が、全部こちらを向いたまま固まっている。
その静けさの中で、一人だけ笑っている男がいる。
「……ああ」
ジャックスだ。腕から血を流したまま、その顔に浮かんでいるのは、歓喜としか言いようのないものだった。
「素晴らしい」
「まだやるか?」
「もちろんでございます」
「ならば、次は俺から行く!」
二陣の刃が生まれる前に、俺は動いた。纏を纏って、氣を巡らせたまま地を蹴ると、距離が消える。
ジャックスの目がそれを追いきれずに揺れた。この男は速い。予選で見た動きは、確かに人のものではなかった。だが、俺の方が速い。圧倒的に。
最初の一撃をこいつは弾く。刃を立てて、辛うじて剣の軌道を逸らした。それが限界だった。指の間に挟まる三本の執刀をすべて斬り、こいつには得物がない。
後ろへ跳んで間合いを取ろうとするジャックスの脚を払って転倒させ、喉元に剣を突き付ける。
会場中がしん、と静まり返った中、大の字で寝そべったジャックスの嬉しそうな声だけが響く。
「――参りました」
審判の手が上がった瞬間、音が戻ってくる。これまでのどれとも違う、地鳴りのようなうねりだった。五万の声が一斉に噴き出し、石の座席が震えているのが足の裏から伝わってくる。
俺は剣を下ろして鞘に納めた。互いの体に傷は一つもない。あるのは、この男が自分でつけた腕の傷だけだ。
「ソラ様」
ジャックスが立ち上がる。
「ありがとうございました」
その声は心の底から出ているように聞こえた。
「……礼を言われる筋合いはない」
「いいえ。小生は今日、初めて全力を出しました。そして、受け止めていただきました」
顔を上げたその目に、殺人鬼だという話とはまるで結びつかないものが浮かんでいる。
「決勝でも、勝たれることを願っております」
ジャックスの渇きは、満たされていた。
石段を降りる前に貴賓席を見る。
片手を上げた途端、アリアが両手を突き上げて跳ねる。周りの貴族が驚いて見ているのも構わずに、二度、三度と跳ねていた。
それから、俺と目が合う。途端にこいつは咳払いをして背筋を伸ばし、澄ました顔で小さく手を振った。
誰も騙せていない。俺は石段を降りながら、少しだけ笑った。




