第106話 天下一闘技大会・貴賓席
「はい、これでよし!」
アリアが俺の襟を直して、二歩下がって全身を眺める。
上から下まで昨日買い揃えたものだ。詰襟の上着に細身の下衣。腰の帯には飾りの金具がついていて、動くたびに硬い音を立てる。剣は持てない。武具の持ち込みは禁止。訓練用の鉛も装着できないので、体が軽すぎて落ち着かなかった。
アリアの方も昨日とは違う衣になっている。淡い桃色のスカート丈が短い。膝が完全に出ていて、この国の女たちと変わらない長さだ。そのスカートがふわりと捲れると、下に黒い布が見えた。脚に沿った薄い布地のものが太腿まで覆っている。
「スパッツというのですって」
視線に気づいたらしく、アリアが裾を軽く押さえて言った。
「短くしないと、この国では逆に目立つのだそうよ。だから丈は合わせて、下に穿くの……これなら、何かあっても平気でしょう」
対策は万全ということらしいが、それでも目の置き場には困る。
「どうかしら?」
「……ああ」
「ああって何よ」
「……悪くない」
アリアが少し笑って、俺の背中を押す。
「行きましょう」
♢
コロシアムの入口には昨日とは別の男が立っていた。制服の胸に羽根が二本刺さった飾りをつけている。アリアの顔を見た途端、その男の顔が緩んだ。
「これはこれは、昨日の美姫ですな。お待ちしておりました。どうぞ奥へ――」
そこで俺に目を留めて、表情が険しくなる。
「……そちらの方は」
「連れです」
「困りますな。貴賓室にお通しできるのは、お一人だけと伺っております」
「では、私も行きません」
アリアがあっさりと言い放つと、男の顔から血の気が引いていった。
「い、いや、しかし、それは……その、お待ちを。少々お待ちください」
男が慌てて奥へ引っ込み、しばらくして戻ってくると、頭を下げた。
「どうぞ、お二人でお進みください」
誰の指図でこうなったのかは知らないが、通れるならそれでいい。
貴賓室はコロシアムの壁をくりぬいて作られていた。
円い闘技場に張り出す形で、そこだけ屋根がついている。日差しも当たらず、風も入らない。石の座席ではなく、布を張った椅子が並んでいて、卓の上には果物と酒が置かれていた。
中にいるのは着飾った連中ばかりだ。羽根つきの帽子、金糸の刺繍、指輪。
そして、全員が厚手の衣を着ている。
「あいつらは薄手でなくていいのか」
小声で聞くとアリアが同じくらいの声で答えた。
「そうね。ドレスコードは貴族には課されないようね」
なるほど。武具を隠せないようにするための決まりだと聞いていたが、隠されて困る相手にしか適用しないということか。ここでは決まりも身分によって形が変わるらしい。
案内の男に導かれて奥へ進むと、一段高くなった場所に見覚えのある姿があった。昨日、台の上で長い挨拶をしていた男だ。ヴェルディアン大公。近くで見ると、指輪の数がさらに多いのが分かる。
そして、その後ろに白い衣が立っていた。ジャックスだ。シルクハットを脱いで小脇に抱え、壁を背にして動かない。控えているというより、そこに置かれているような立ち方だった。
アリアが一歩前へ出て、裾を軽くつまんだ。
片足を後ろへ引き、膝を落として、首をわずかに傾ける。それだけの動作なのに、妙に尊く見えた。
こういう挨拶を俺は見たことがない。
「星国より参りました。アリア・セレスティアと申します」
「……ほう」
大公が身を乗り出す。
「見事なカーテシーだ。作法を仕込まれた家の娘だな」
カーテシー。そういう名前らしい。俺は隣に立っているだけで何をすればいいのか分からなかったので、直立不動。
大公の視線がアリアから離れない。何度も顔と胸の谷間を往復して、スカートから覗く綺麗な膝小僧にも視線が飛ぶ。エイガーと同じ目。そして、俺も同じような目をしているのかと思うと、嫌になってくる。
もう一つ、別の視線がある。ジャックスだ。こちらもアリアを見ているが、大公とは違う目――測っているものが別だった。強さを測る目だった。
大公が俺を見た。
「して、そちらの若いのが、昨日の第七ブロックの勝者だな」
「ソラだ」
「……ふむ。言葉遣いは知らんらしい」
「そのようですな、閣下」
案内の男が愛想笑いを浮かべる。
だが、大公は気にした様子もなくアリアへ視線を戻す。
「アリア殿。ぶしつけだが、その男とはどういう間柄かな」
アリアが一瞬、言葉に詰まった。こいつが答えに窮するのは珍しい。仲間だとでも言えばいいものを、なぜか黙っている。
やがて、アリアは顔を上げてはっきりと言った。
「添い遂げる者です」
部屋の空気が少し動いて、卓を囲んでいた貴族の何人かがこちらを見た。
アリアの耳がうっすらと赤くなっている。それでも視線は逸らさない。
「なるほどのう」
大公が指輪を撫でながら、笑った。
「して、本題だが、そなたを呼んだのには、理由がある。賭けをせんかね」
「賭け、ですか」
「うむ。この国では最も由緒正しい遊びよ」
大公が闘技場の方を指し示す。
「本選は明後日から始まる。そなたの男と我がジャックスが当たるのとすれば準決勝。どちらが勝つかの賭け。もちろん、そこまで辿り着かなければ、先に負けた方の負けだ」
「ソラが勝ちます」
迷いも間もない即答に大公が声を上げて笑った。
「威勢がよい。だが、ジャックスは二年続けて勝っておる。今年もそうなろうよ」
「ソラが勝ちます」
「二度も言わずともよい」
笑いながら、大公が身を乗り出してくる。
「では条件だ。そなたの男が勝てば、ヴェルディアン白金貨を一枚くれてやろう……そして、ジャックスが勝った場合は」
そこで言葉が切られる。この男は間の取り方を心得ていて、昨日、双子を出す前にも同じ呼吸をしていた。
「そなたが余のものになれ」
この国ではこういうものも賭けの対象になるらしい。人を副賞にする国だ。驚くほうがどうかしているのだろう。
腹の底が冷えていくのが分かる。だが、俺が口を開くより早く、アリアが答えた。
「お断りいたします」
その声に迷いも震えはない。
「ヴェルディアン白金貨など目にすることもあるまい。即答する理由を聞かせてもらえるか?」
「私はソラのものですので」
俺は思わず横を見る。アリアを『もの』なんて思ったことは一度もない。いや、アリアだけではない。人を『もの』と思ったことなどない。アリアも俺の考えを見抜いている。だから、こいつが言った意味はそういうことではないと分かる。
アリアは大公から目を逸らさず、まっすぐに立っていた。頬が赤いのはさっきの続きなのか、それとも別の理由なのか分からなかった。
「代わりに、こちらから条件を出させていただきます」
「ほう?」
「ジャックス殿が勝たれた場合、星国製の白金貨を一枚、お渡しいたします」
今度は部屋がざわついた。
「星国の白金貨だと?」
「聞いたか? この娘、何を言い出す」
「そんなもの、貴族でも持ち歩くまい」
貨幣は信用そのものだと、アリアは言っていた。星国の貨幣が一番信用されるのは国が潰れる心配がないからだと。
その最上位の一枚をこの国の白金貨と釣り合いに出すということか。
「面白いことを申す。だが、口先だけでは賭けにならん」
アリアが胸の谷間に手を入れて、卓の上に一枚置いた。白く鈍く光る貨幣で、星国の紋が刻まれている。
部屋が今度こそ静まり返る。誰かが椅子を鳴らして立ち上がり、覗き込んでいた。大公の指が止まっている。
「……本物か」
「お確かめください」
案内の男が恐る恐る手に取って、灯りにかざし、爪で弾いて音を聞いてから、深く頷いた。
「間違いございません、閣下。星国製にございます」
大公がしばらく貨幣を見つめてから笑い出す。今度は腹から出た笑いだった。
「よかろう! 賭けは成立だ!」
俺は隣を見る。こいつは平然と立っていて、まるで銅貨を一枚出したかのような顔をしていた。
♢
賭けが成立すると貴賓室での観覧を許された。
もっとも、居心地がいいわけではない。周りの貴族たちがこちらを遠巻きに見ながら何か囁き合っている。星国から来た娘とその連れ。噂の種にはちょうどいいのだろう。
俺には席がないので、ここで見るしかなかった。アリアの斜め後ろに立って、闘技場とそれから室内の両方に目を配る。
大公はもう俺たちに関心を失ったらしく、酒を舐めながら試合を眺めている。ジャックスは相変わらず壁際から動かない。
試合は第九ブロックから始まった。
昨日と同じで、番狂わせはほとんど起きない。勝つと目されていた者がそのまま勝ち上がっていく。
「あの人はどうかしら?」
「……まぁまぁだな」
「でも、火でも水でもないわね」
「ああ、来てほしいとは思わない」
勝ち上がってくるのは剣が強い者、腕力のある者、素早い者ばかりだった。魔法を使う者も少なくないが、火属性と水属性は皆無。
勝者の顔ぶれを見ながら、アリアが小さく息を吐いた。
「難しいわね」
「まだ残っている」
「そうね」
どんどん試合が消化されていくが、俺たちが探しているものは出てこない。
そして、最後の組が呼ばれた。
第十六ブロックのリングに百人以上が上がっていく。その中に、一つだけ動きの違う影があった。
女だ。淡い空色の髪が腰まで届いている。剣の提げ方も、立ち方も、そこらの傭兵とはまるで違った。背筋の伸び方に見覚えがある。どこかで訓練を受けた者の立ち方だ。そして、その首に鉄の輪が嵌まっていた。
「……アリア」
「ええ」
アリアも同じところを見ている……いや、アリアだけではない。
貴賓席の者たちも、観客も、選手たちもその女を見ている。
今日の試合の中では最速で終わり、進行役の声が響いた。
「第十六ブロック、勝者! 元・アクエリス公国近衛騎士! ミレイユ!」




