第100話 下界へ
「な、なんだい……? それは麒麟かい?」
セフィーラがネイと一緒に天幕に戻ってくると、俺の有角馬を見て目を見開く。
「ああ、俺が倒した麒麟――オルだ」
「オルってあんた……本当に他の個体よりも小さい――まだ成体ではないようにも見える……でも、生命力は他の有角馬を遥かに凌いでいる……」
驚くセフィーラをよそに、ネイはいつもの調子だ。
「相変わらず化け物じみてるねぇ。しかも名前までつけちゃって。ってことは、あれかい? アリアの有角馬も名前を付けたのかい?」
「え、ええ……ルナと名付けたわ」
「へぇ……オルにルナねぇ。いい名前だね。アタイも手懐けたら、名前をつけることにするよ」
「で、どうなんだ? お前の方は?」
「セフィーラ様が言うには順調って話だよ。九月――雪が降る前にはなんとかなるんじゃないかって」
なら、それまでは時間を有効に使うまでだ。
俺とアリアは、その間ずっと体をいじめ抜く。
朝は素振りと走り込み。昼は氣と纏の同時展開を繰り返し、疲れたら有角馬と有角馬に騎乗して慣らす。そして、夕方にはアリアと打ち合う。
アリアは強くなっていた。氣を巡らせたまま【聖翼纏】を纏い、刺突の速さが以前の比ではない。俺が押し込んでも、いなされて返される。この山に来てから、俺たちは互いに一段上がった。それが打ち合うたびに分かる。
そして九月も終わろうという朝、斜面から駆け下りてくるネイの声が、庭園中に響いた。
「生えた! 生えたよ! 見て、アタイの色だよ!」
馬体は軍馬の色――栗毛色になっていたが、角は翠だった。日を受けて、若葉のような色が透けている。
ネイが自分の有角馬の首に抱きついて、そのまま泣き出した。順応に二十日かかり、角を折るのも、手懐けるのも一番じゃなく、それでも一度も投げ出さなかった女が、翠の角に頬を寄せている。
「よくやったね」
セフィーラがその背を叩いた。その声は震えている。
「ありがとうございます! 私はシルと命名しました」
「シルか。良い名だな」
「そうね、シル。これからよろしくね」
アリアがシルに近づくと、ペロリとアリアの頬を舐めるシル。
有角馬が一人にしか懐かないというのは、嘘なのかもしれない。
♢
問題は、どうやって降りるかだった。
「あんたら、そもそも分かってないねぇ」
セフィーラが呆れた顔をする。
「この山はね、下から来る奴を拒むように出来てるのさ。螺旋も、奈落落としも、全部そう。逆に言えば、上からはいくらでも降りられるんだよ」
「……道があるのか」
「あるさ。あいつら専用のね」
セフィーラが庭園の際まで歩いて、下を指す。
「上がる時に乗った螺旋とは別に、降りるための風がある。ゆっくりとした、下りの流れだよ。有角馬はそれを知ってる。乗せてもらえば、勝手に連れて降りてくれるのさ」
「婆さんはどうする」
「あたしを誰だと思ってるんだい」
セフィーラがにやりと笑う。
「疾風星将様だよ。あたしが操れない風なんてないさ。さ、荷物を纏めておくれ。持ち帰る物は最小限にしておいておくれ。次にあたしの部隊の者が来た時に使えそうなものは、置いていきな」
セフィーラに言われて、持ち帰る物は最小限にしておく。
さすがに衣類などはすべて持ち帰るが、天幕や獣脂などはすべて置いていく。
「さて、行くよ。ついてきな」
セフィーラが老婆の姿のまま、下降気流に乗って降りる。
俺たちもそれに続く。
落ちる感覚はない。風が体ごと支えていて、有角馬は風に脚を預けたまま、ゆっくりと高度を落としていく。庭園が上へ遠のいていく。雲を抜けると、岩の壁が横を流れていった。
奈落落としも、狭い岩棚も、何度も跳んで繋いだ足場も、全部が上へ流れていく。あれだけ苦労した一つ一つが、瞬く間に頭上へ消えていった。
有角馬は苦もなく降りていく。二日かけて登った道を、数時間で降りきった。
地面に足をつけた時、ネイがその場に座り込んだ。
「……地面だ。空気も濃い」
三か月ぶりの地上だ。
「一つ、約束しておくれ」
荷を降ろしながら言うセフィーラは、いつになく真剣な顔をしていた。
「街に降りたら、麒麟という言葉は絶対に使うんじゃないよ。あれは有角馬だ。それ以外の何物でもない」
「なぜだ?」
「あいつらは魔物だからさ」
言われて初めて気づく。
確かにセフィーラは最初から言っていた。古代種の成れの果て、魔物だと。だが俺はあれを、角のある大きな馬だと思って接していた。もし最初から魔物だと知っていたら、違う目で見ていたかもしれない。
論功行賞式典の時、シャーレが馬と強調していたのを思い出す。
あの言葉には、そういう意味も含まれていたのか。
「街の連中にとっちゃ、魔物は畑を荒らして家族を殺すものさ。それに跨ってる騎士がいると知れたら、どう思う?」
「……なるほど」
「分かればいいのさ」
♢
街道に出るまでの道すがら、ネイが俺の隣に有角馬を寄せてきた。
「ソラ。あんたには借りがあるからね」
「借り?」
「落ちたのを拾ってもらったろ。二回も」
そんなこともあった。もう随分前のことに思えるが。
「いつか必ず返すよ。何がいいか考えとくれ」
「いらん」
「そう言うと思ったよ」
そこへ、セフィーラが割って入る。
「なんだい、まだ返してないのかい。だったら、キスの一つでもしてやりゃあいいだろう」
ネイが噴き出して、それから首を横に振る。
「無理ですよ」
「なんだい、つれないねぇ」
「そうじゃないです。アタイがそんなことをしたら、二人の間にひびが入るかもしれないじゃないですか……ま、入れられるわけもないんですけどね」
最後の一言は前を向いたまま呟かれて、風に紛れてよく聞こえない。
セフィーラの有角馬を預けてある街まで、四人で歩いた。
厩舎の前で、セフィーラが自分の深緑の有角馬を引き出す。首を撫でられた馬が、嬉しそうに鼻を鳴らす。
ここで気づく。そういえば、こいつの有角馬の馬体の色は深緑だ。
「なぜ、婆さんの有角馬は深緑なんだ?」
「ああ、これかい? あたしが未熟だったんだよ。角を折ろうとした魔法がこいつの躰に直撃して、死にかけたんだよ。他の個体に変えても良かったんだけど、せっかく戦った相手だ。何とかできないかと思って、傷を塞げるわけでもないのに、魔力を注ぎ続けたんだ。そしたら馬体の色が変色しちまってねぇ……」
そう言いながら、セフィーラが有角馬に跨る。
「じゃ、あたしはここまでだね」
「世話になった」
「ほんとにねぇ。あたしがいなけりゃ、あんたら三人とも、あの山で死んでたよ」
その通りなので、何も言い返せない。
「セフィーラ様。本当にありがとうございました」
アリアが深く頭を下げると、ネイも並んで頭を下げる。
「よしな。あたしが好きでやったことさ」
セフィーラが手を振ってから、俺を見る。
「ソラ。たぶんこの先も、常識の外を歩くよ。誰も通ってない道ばかり選ぶ」
「そうか」
「そういう奴には、隣に誰かが要る。止める奴じゃない。ついていく奴がね」
そう言って、こいつはアリアの方をちらりと見た。
「ま、心配は要らないみたいだけどね」
ネイは疾風星将の隊を抜ける手続きがあるため、セフィーラと一緒にラウディアへ戻ることになっている。
ネイが有角馬に跨って、翠の角を光らせながら駆けていく。セフィーラの深緑がその後を追い、二つの影が街道の先へ消えるまで、俺たちは見送っていた。
♢
残ったのは、俺とアリアと、有角馬と有角馬。
王都まではここから五日ほどだろうか。もっとも、この脚なら半分……いや、下手すれば一日で着く。
「……終わったわね」
アリアが空を見上げる。ランダールが遠く霞んで見えた。あの雲の上に、俺たちは三か月いたことになる。
「長かったな」
「ええ。長かった」
俺は自分の手を見た。角を斬った時の痺れが、まだどこかに残っている気がする。
二か月以上、走っても跳んでも届かなかった。それが届いたのは、こいつが手合わせを申し込んできてくれたからだ。丹田から心臓へ、それだけのことで俺は変われた。
一人じゃ成し遂げることは不可能だった。
多分、そう思えるのは、アリアと再会する前の一年半があったおかげだ。
あの時間は無駄じゃなかった。
「アリア」
「なに?」
「お前がいなかったら、俺はまだあの山にいた」
こいつが目を丸くして、それからゆっくりと笑う。
「私もよ。あなたがいなかったら、私はあの岩棚から一歩も動けなかったわ」
どちらからともなく手を伸ばして、指を絡めて握る。冷たくない。奈落落としの上で震えていたあの時とは違って、温かかった。
顔を寄せると、今度は鼻先もぶつからない。
唇が離れると、アリアが照れたように俯いて、それから顔を上げた。
「……少しは上手くなったわね」
「少しで悪かったな」
「褒めているの」
二人で笑って、それから有角馬に跨った。金の角と白銀の角が、日を受けて並んで光る。
「帰るか」
「ええ」
二頭が同時に地を蹴って、王都へと向かった。




