40燈火近く
空は薄曇りの朝
春の気配にはまだ遠い まだ少し冷たい
葵は何時もより早く目が覚めていた
時計を見る 合格発表は午前十時
まだ早い
布団の中で天井を見つめる
試験の日の感触はよみがえる
鉛筆の音 問題用紙の重み
やれることはやった
そう言い聞かせるが 心は落ち着かない
寮の自室
パソコンの前に座る
同質のさくらは 今日は実習で外出中
部屋は静かだ
十時ちょうど 更新ボタンを押す
一瞬 画面が止まる
お願い
次の瞬間 受験番号一覧が表示される
スクロールする手が少し震える
目で数字を追う
一段目
二段目
三段目
ない?
一瞬 血の気が引く
スクロールする その下に
あった
自分の受験番号
もう一度確認 間違いない
画面を見つめたまま 体が動かない
数秒
そして ゆっくり息を吐く
「…よかった」
涙が静かに落ちる 声は出ない
ただ胸の奥の重石が すっと消える
年越しの夜 机に向かった静かな時間
不安に押しつぶされそうだった瞬間
全部が 今につながっている
スマホを手に取る
一番最初に送るのは 菫
「受かりました」
送信
直ぐに既読 電話が鳴る
「葵?」
菫の声が いつもよりやわらかい
「うん 受かった」
少し間 向こうで息を飲む声
「よかったなあ」
その声に葵の目からまた涙がこぼれる
「ありがとう」
「いや あんたが頑張ったんや」
その頃 村では
道の駅の建物が 春の光を受けている
菫はスマホを胸に当て 少し空を見上げる
若い力がまた一つ
診療所の先生にも連絡が入る
「合格か 待ってるで」
それは期待でなく 静かな歓迎だった
葵は窓を開ける 少し冷たい風
資格はゴールではない通過点
命に触れる仕事 責任が始まる 怖さも
でもそれ以上に
村には診療所もある 道の駅も出来る
支えたいという気持ちがある
遠くに見える都会の景色の向こうに
村の山を思い浮かべる
葵は静かに微笑む
春はもうすぐそこまで来ていた
風はやわらかい
葵は村立総合診療所の前に立つ
見慣れた建物
子供の頃 何度か来た場所
熱を出して来た場所 予防接種で泣いた記憶
でも今日は違う
患者としてではない
ここで働くかもしれない
扉が静かに開く 消毒液の匂い
静かな待合室 テレビの小さな音
受付の職員が顔を上げる
「あら 葵ちゃん」
「こんにちわ」
声が少しだけ固い
「合格 おめでとう」
その一言に
胸の奥が じんわり温かくなる
「ありがとうございます」
葵は深く頭を下げる
少し沈黙
葵は 用意してきた言葉を思い出す
「まだ これからですが…」
声を整える
「准看護師として
この村で働くことを考えています」
「ここで 学ばせていただけたらと思って…」
言い切るのに 少し勇気が要った
所長は直ぐには答えない
窓の外を見る診療所の庭に
小さな草花が芽を出している
「看護の仕事は楽やない」
静かな声
「責任もあるし つらい場面も多い」
葵は頷く
「それでもです」
自分でも驚くほど 声は落ち着いていた
「ここで
人の生活に寄り添う仕事がしたいです」
所長は
ゆっくりとうなずいた
「正式な話は 手続きがある」
「でも…」
少しだけ笑う
「見学でも 手伝いでも 来たらええ」
「現場は教科書とは違うからな」
葵の胸が すっと軽くなる
「ありがとうございます」
「こちらこそ」
診療所を出ると
風が頬に当たる 少し冷たい
でも 不思議と心は温かい
資格を取っただけでは まだ何もしていない
でも 一歩は踏み出した
帰り道
道の駅の建物が見える 完成した外観
これから 人が集まる場所
私も ここで生きていく
葵は小さく息を吐き 前を向いて歩きだす
春は もう足元まで来ていた
二月の終わり
寮の部屋でやわらかな夜の灯りが落ちている
机の上には 葵の合格通知のコピー
その横で さくらは何度もスマホを見ていた
言わなあかん でも言い出せなかった
葵が先に話始める
「診療所 見学いってきた」
「うん」
「思ったより覚悟要る仕事やった」
さくらは頷く しばらく沈黙
外では 風が少しだけ窓を鳴らす
「なあ 葵」
声が少し低い
「ん?」
さくらは深呼吸する
「うち 就職…決まってん」
葵の目が ゆっくりさくらを見る
「え?」
「百貨店の地下食糧品売り場の商品開発」
言葉を続ける
「去年の秋に内定もらってた」
静かな部屋に その事実が落ちる
「なんで言わんかったん」
葵の声は怒鳴っていない ただ 驚き
さくらは視線を落とす
「葵 試験前やったやろ」
「うちの話で 気持ち揺らしたくなかった」
「それに…」
少し間を置く
「村に残るかどうか うちも迷ってたから」
「正直な」
さくらはゆっくり言う
「道の駅出来るって聞いた時
残ろうかって思った」
「でも一回外見てみたいって気持ちも
消えへんかった
百貨店の商品開発 全国の産地と繋がる仕事
いつか 村のものを あそこに並べたい」
その目は真っ直ぐだった
「ずるいな」
さくらの胸が一瞬だけ締まる
だが葵は 笑っていた
「ちゃんと決めてるじゃん」
その言葉を聞いた瞬間
さくらの中で何かがほどけた
立ち上がるより早く体が動く
葵も立ち上がる
次の瞬間 二人はしっかり抱き合っていた
軽くではない 冗談でもない
逃げないように 確かめるように
さくらは葵の背中に胸を回し
ぎゅっと力を込める
葵も同じ強さで抱き返す
そのまま 動かない 誰も何も言わない
時間が少しだけ長く伸びる
さくらは目を閉じる
この村の匂い 夏のホタル
秋の紅葉 春の桜
村で育った時間が 一気に胸に押し寄せる
離れたら もう戻れない気がした
いや 戻れる でも 今と同じではない
その事実が 静かに胸を締めつける
葵の指先が
さくらの背中の布をぎゅっと掴む
言葉が出ない
出したら 何かが崩れそうだった
しばらくして さくらが小さく息を吐く
「…怖いよ」
声が 少しだけ震えてる
葵は抱きしめる胸を緩めずに言う
「うん でも 行って」
強くも弱くもない声 背中を押す声
やがて 二人はゆっくりと体を離す
目は赤くなっていない
けれど 胸の奥は確かに熱い
道は違う でも 同じ村の灯りを見て育った
それは消えない
部屋の灯りを消す前
さくらが言う
「ごめんな 黙ってて」
葵は首を振る
「うちの為にやろ」
「ありがとうな」
静かな夜
未来は分かれる でも 切れてはいない
道の駅は完成する
さくらは外に出る 葵は村に残る
それぞれの場所で 春が始まろうとしていた




