【3】そんなふうにしか思われていなかった
悔しさを飲み込み、残り少ない財布で電車に乗った要は、とぼとぼとした足取りで駅前に立っていた。そしてまたしてもあのプレハブの居酒屋に引き込まれていた。
このままでは、こんな安居酒屋でさえ二度と来られなくなってしまう。
だからといって底辺のアルバイトになんか絶対に戻りたくはなかった。
相変わらず犯罪者の老人たちが昔語りで盛り上がっている。
下には下がいる。俺の刺した被害者は軽傷だ。
自分も同類、それ以下だという事実は彼の頭からすっかり消えていた。
今日は奮発してふぐ刺しを頼んでみた。飲み慣れない大吟醸を煽っているとき、前の席に誰かが座った。
「顔色悪いよ」
「慈さん」
それはまさに女神だった。海部 慈は向かいの席に座ったのだ。彼女は見つめてきた。名前通りの瞳、その慈に要の心は包まれた。
「一気に飲むと体壊すよ。辛いことがあったら話して。ね」
要の背中をやさしく撫でる慈がいた。嬉しくて要はますます泣いていた。
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テーブルを向かい合わせで二人で飲む姿に、常連客の老人たちが目を向けていた。
今日もまた熱心なことだ。
毎日気を張り詰めていて身が持たないぞ。
世の中は簡単には変わらない。
押したり引いたりしながら少しずつ。
一度に全て満たすのは全てを失うことになる。
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老人たちの声が聞こえていたのか。聞こえていても変えられないのか。
慈は要の話を黙って聞いて頷いてくれた。
「逮捕されてからアパートも強制退去させられて」
「今はどうしてるの」
「一泊1500円の宿泊所でいる。もうお金がなくなる」
「それならわたしの家に行こうか」
「え」
それは衝撃的な言葉だったが、慈はニコニコとお構いなしだった。
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「さあ入って」
閉店したスーパーの上階は静かに闇が覆っていた。住人も少ない三階のアパートは、騒いでも誰にも文句を言われないだろう。マットレスと枕以外に何もない、まるで空き家のような状況だ。隣の部屋への襖は閉じられ、ここから中を伺うことは出来ない。
色あせた畳、剝れた壁紙。切れかけた蛍光灯の下で緊張して正座して待っていると、慈が台所から冷えていないペットボトルを持ってきた。
「お茶でもどうぞ」
「あ、ありがとうございます」
もう深夜に差し掛かろうとしていた。慈は横を向きお茶に口をつけた。
「ここに住んでいるんですか」
不思議がって聞く要を慈はあっさり否定した。
「こんな汚い場所に住むわけないじゃない」
こんなところに住むのは底辺だけよ。
「いま何て言ったんですか」
慈が立ち上がって壁に向いた。そのとき明かりが消えた。
戸惑い立ち上がる要。頭に鈍い痛みが走ったのだ。
声を上げる要はそれが棒のような武器だと解った。
そして衝撃の際、慈の激しい呼吸が聞こえたのだ。
暗闇に動けない要を目掛け、また一撃が飛ぶ。
「どうして」
「お前がなろう小説の流行を妨害した」
掛け声とともに振り降ろされる特殊警棒。暗闇で玄関を探すが、慈は要が逃げ出すよりも早くそれを振り降ろした。
「お前のせいで! お前のせいで」
要は倒れた。樽のような体を容赦なく打ち付ける特殊警棒。どれだけ叫んでも、ここにあるのは慈の息が切れる音だけだった。
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要が倒れた横で慈は特殊警棒片手にさまよっていた。何かに納得し、無理に納得させ、ようやく慈は畳に腰を落として転がった。
少し離れて倒れているのは可哀そうな人ではない。助ける必要もない。
横になって胸に抱く特殊警棒からの感触は、社会の変革や貧困者の救済への妨害を排除する鉄槌だ。だからあの女性もいつかどこかで救われていると、ただの憂さ晴らしを、根拠のない理由を正当化することで慈は自我を保っていた。
部屋は静けさを取り戻し、いまなら襖の向こうに人がいても、こちらの存在に気づかないだろう。明かりは消えたままだが二人とも見上げる天井に目が慣れてきた。
「どうしてなんだ。どうしてなんだ」
「あんたみたいなブサイクで貧乏でキモい奴なんか誰が相手にするって思ってるの。自己満足の小説書いてる奴なんて誰から見ても最底辺なのよ」
要が驚いて声を上げた。
「そんなことを慈さんが言うなんて」
「何度でも言うよ」
「言うな」
「言い続ける」
「言うな」
「お前が死ぬまで絶対に言い続ける」
「やめろ」
いままではバカにされ搾取されるだけの存在だった。なろう小説のおかげで、登場人物だけでなく作者も努力なしで成功できることを知った。だから要は絶対的な勝利をこの身で証明したかった。
痛む頭と体で要は倒れたままありったけの声を振り絞った。
俺は社会を変える。
すると横になった慈と要の体の周囲があのニセモノの中世に変わっていたのだ。




