【3】底辺は底辺のままでという願望
二人で飲んだあと、壮哉は自宅に連れて行った。莫大な印税でさぞ豪邸だと思いきや、そこは今にも倒壊しそうな惨状だったことに驚いた。壮哉の母親は優しく出迎えた。しかし壮哉はその慈悲を無碍にして自室のドアを閉じた。
「喧嘩でもしたんですか」
そう驚く要に壮哉は吐き捨てるように言った。
「俺だって母親を楽にさせたい。幸せにさせたい。だがアクセサリーや高級な食事にはまるで興味を示してくれない」
「照れているんですよ。きっと自慢の息子だと思ってますよ」
「違う」
違うんだ。
「どれだけ俺が稼いでも、それで俺の過去が変わるわけじゃない。あの人は贖いを終わらせたくないんだ。俺を恨み続けているから、いつも粗末な格好で、いつも粗末なものしか食べないんだ」
「でもそれは。俺もニートだったから親はいい顔しなかったし」
「お前に何が解る」
憎らしく言うと、要は自分が責められたような気がして縮こまった。その壮哉は要の方を向いているわけではなかった。
「俺は豪邸を建てる。誰もが驚く家だ。日の当たる暮らしを教える」
そのためにはこの程度の印税じゃあ足りないんだ。
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それから要は、たびたび壮哉の家に遊びに行った。相変わらず壮哉は母親と軋轢があるみたいだが、要にはどうしても彼女が悪人には思えなかった。
壮哉は売れ筋のジャンルや読者の心の掴み方を教えてくれた。だが要は頭が悪く、ほとんど理解出来なかったので、新刊はいつものように小説とはとても呼べない、擬音とステレオタイプの感情表現と無双する主人公で埋め尽くされていた。
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それは要が編集部に行ったときのことだった。ここで何度か見たことがある男は自分と同じなろう作家だった。そいつが編集部員と言い争っている。
「印税が入っていない! どうしてなんだ」
そう暴れようとする男に、編集部員は冷静に契約書を見せつけた。
俺のときと同じだ。要が思い出したとき男が激昂した。
「買い切りだと! しかもたった五万円! この契約書はニセモノだ」
「何をバカなことを」
男は編集部員に掴みかかった。しかし編集部員は平然と突き飛ばした。
警備員以下数人がサスマタを構えていた。
怒りに我を忘れたのだろう。男は暴れた。あっという間に捕えられその体が床に押されつけられた。すぐに警察官が駆け付けた。
「騙しやがって」
手錠が後ろ手に嵌められる。
「俺の小説は売れた。たくさんの読者が認めてくれた。努力なしでも成功した俺は天才だ。なのにこの仕打ちかよ」
ビルの外でパトカーに押し込まれる男を編集部員は冷たく見下した。
「お前ら絶対殺してやる」
男の捨て台詞はドアの向こうに消えた。雑魚相手にサイレンは不要だった。静かにパトカーは発進した。
「根拠のない欲望を垂れ流すだけの奴らか。さて飯にするか。今日は俺が奢ろう」
編集長が鼻で笑うと、編集部員は厄介払いのパーティだとはしゃいだ。
あのとき、もしかしたら自分もこうなっていたかも知れない。
他人事だった。なのになぜか悔しかった。
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底辺の心理を全身に受けたおぞましい体験は、ネットで素性を特定されそうなことで増幅され、いまの那賀 恢復はその底辺以下の存在として、大学に通えずコソコソ隠れていた。
脳内でエア講義を開催する恢復は大学の教科書を自力で理解してゆく。宿題も現実のものではなく彼の頭の中のエアレポートだったが、まるで本物のようにそれをパソコンで仕上げプリンターで印刷して、提出したつもりになって机に積み上げていった。
すべてのSNSから足跡を消去したのに、特定班は恢復が学生であることだけでなく、おおよその現住所や出身高校まで特定していた。
このままでは僕は。
どれだけゴミ袋が生活スペースを圧迫しても、わずかな切欠で日常が決壊すると考えると、陰鬱な日々に恢復は押しつぶされていた。
こんなに怖いのにお腹は空くんだ。
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恢復は早足でいつものコンビニに向かう。可能な限り短時間で選ぶ弁当も飽きた。レジで精算しようと、ポケットに手を突っ込んで指の感触に驚いた。
全く手応えのないそこには、ここに来るまでは確かに財布があったんだ。キャッシュカードもクレジットカードも使えるお金の全てが入っていた。最後の頼りのスマホの電子マネーの残高はほぼゼロだった。
真っ青な顔で何も手にせずコンビニを出た恢復は、目を皿のようにして来た道を戻った。それから近くの交番に向かった。
わずかの期待を持っていた恢復だが、そんな都合のいい話はなかった。
ワンルームマンションに帰って、こんなときどうすればいいか。ネットで検索して銀行に電話する。口座は手を付けられておらず無事に凍結された。
財布を拾ったのは。財布を届けなかったのは貧困な連中かも知れない。いやそうに違いないと恢復は無性に腹を立てた。
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部屋中を探し回り、ようやく見つけたのは小銭が数百円だった。
恢復はスマホから電話を掛けた。しかし電話がつながると、彼は予定していた行動を切り替えたのだ。
「お母さん。間違って掛けただけだよ。ごめん」
恢復は慌てて電話を切った。
僕だって大学生だ。親に頼らなくても、やっていけるところを見せたいんだ。




