【4】絶望の止《とど》め
その板野 雄武は省庁の会議室で、あたふたと書類を配っていた。
「何やってる! ページが抜けているぞ」
「申しわけありません」
高給なスーツや腕時計を身に着けた上司が、ズラリとテーブルに並んでいる。
「そこのきみ。きみだ」
「何でしょう」
「この資料の意味が解らないのだが」
定年間際の古びた男が呼びつける。
「この『シャットダウン』というのはどういう意味かね」
「それは」
誰もが知っていて当然だと、とくに注釈はつけなかった。しかし携帯電話さえまともに使えない男からは容赦ない声が飛んだ。
「こんな難しい用語が理解できるわけないだろうが」
「全く。最近の若者が年上を労わる精神に欠けとる」
「誰でも解るように説明しろ」
「しかしこれはクラウドネットワークの説明会であり」
「そんなのはお前らの仕事だ。儂らはそんなもの使えなくて当たり前だ」
「そんなことも解らないのか」
「しかしこれは省庁全員の学習会であり」
「黙れ」
「しかし」
「黙れ」
全く学ぶ気のない連中が雄武を叱責し続けた。
「ワシらが苦労したおかげでこの省庁は存在しているんだぞ。他の省庁に吸収されたらどうなるか。お前のような奴はとっくに出向だ」
「ワシらに感謝しろ。頭を下げろ。毎日土下座しろ」
「そんな」
理不尽極まりない上司たちに翻弄され、反論を許されない雄武が涙目になる。しかし雄武以外の同僚、若手役人はてきぱきと無茶ぶりに答えていた。それどころか。
「そのスーツ素敵ですね」
「すごく若々しいです。さすが省庁の鏡」
「こんど麻雀に誘ってくださいよ」
「おしゃれなバーで飲む人って憧れですよ」
彼らは巧みに上司の好みを聞き出し話題を合わせ、的確に満足させていた。
対して雄武は怒鳴られるだけだ。それでも学習会を進行させなければいけない焦りが足を空回りさせ、雄武は床で滑って転び、上司のスーツを掴んでしまった。
手遅れだった。
ボタンが飛んだ上司が阿修羅の如き顔で雄武を突き飛ばした。クスクスと同僚が笑う中、雄武は会議室を叩き出された。
誰もいない控室は照明を落とされていて、パイプ椅子で雄武は俯くだけだった。よれよれのスーツの胸に手をやってみる。何千件ものスマホの着信に気がついたのは、そのときだった。
毎日の深夜残業で疲れ果てた体と脳に、返信する気力は残っていなかった。それでもようやくタップしようと指を伸ばしたが、そこに同僚たちが入ってきた。
「こんなところでサボるなよ。次の会議があるんだぞ」
「早くしなさい」
雄武がどうにか立ち上がり、よろよろと進みだすと、女子職員が思いついてヒールで足を引っ掛けてみた。
「あらごめんなさい」
床に倒れた雄武に女子はケタケタ笑っている。
「そんなところに寝てるとゴミと間違えられちゃうわよ」
「ゴミならゴミらしく焼却場にでも行けよ」
「それは私のことか」
雄武が倒れたまま睨みつけるが同僚は鼻で笑うだけだ。彼は我を忘れて女子職員に食って掛かった。
「私がゴミだと言うのか」
「誰が? そんなこと言ってないし」
女子社員はこれ見よがしに声を上げた。
「みんなー? わたしが何か言いました」
「何も」
周りの全員が鼻で笑っている。
「ほら誰も何も聞いてないって」
「被害妄想甚だしいってやつだね」
もう居たくない。雄武は彼らを突き飛ばし泣きながら逃げ出していた。
しかし行き場所はなく、また戻るしかなかった。
――――――――
その夜のことだった。木枯らしが強くなっていた。焦燥しきった雄武は、人通りの絶えない街の歩道に座り込んでいた。
さっきまで飲み会だった。上司にひらすら酒を注ぎ慣れないお世辞をばらまき、どれだけ罵倒されても、殴られても蹴られても笑ったままで裸踊りを披露し、タバコの火を押し付けられても、それでも表情を歪めてはいけなかった。
高級フランス料理店の前で雄武は土下座させられた。
「お前は最低のクズだ」
「どれだけ恥をかかせる気だ」
「ここにいる全員に心から詫びてみろ」
「もっと頭を地面にこすり付けろ」
定年間際の上司。若手の同僚にとって、それは見慣れた娯楽だった。頭を踏まれ額から血が出たが、誰もそのパワハラを止めようとはしなかった。
「板野。反省の意味も込めて全員分を払え」
「やめろ! やめてくれ」
若手数人が雄武の体を押さえつける。暴れる雄武は腹を殴られた。
そしてクレジットカードを奪われた。
「こんなことが許されてたまるか」
訴えてやる! ネットで公開してやる。
しかしそんな悲痛な反撃はやはり娯楽だったのだ。
周りはますます笑いに包まれた。
定年間際の役人が雄武の襟首を掴んでタバコの煙を吐きかけた。
「ここは天下の省庁だ。内輪のことは誰にも踏み込めない」
「警察に駆け込んだ後に突然退職した奴がいたなあ」
「あ。それ知ってる。電話で退職してきたって」
「お前も気をつけることだ」
雄武は床に投げ捨てられた。
そのときカードを奪った奴が現れた。そいつは呆れながらカードを投げ捨てた。
クレジットカードは使用停止になっていた。
「この程度の金もないのか」
「サラ金に行って作ってこい」
「公務員はいくらでも貸してくれるぞ」
反撃しないおもちゃに誰しも満足していた。
――――――――
奴らが去って行き、雄武がよろける体を起こしたときだった。
「那賀くん」
ようやく拾った着信はSNSのビデオ通話だった。恢復はみすぼらしい雄武の姿に怖い顔をしていた。彼は無言でスマホのスクリーンショットを送り付けた。雄武がうろたえた。
「さっきSNSで見つけました」
それはこの場所で起こった、雄武の土下座の動画の一部だった。
「ネットは拡散が早いですね。まだ三十分経ってないのにすっかり有名ですよ」
恢復は容赦なかった。
「やっぱり板野さんは無能だった」
「違う、那賀くん違う」
「違わないですよね」
寂しげな恢復に、雄武はなんとスマホのカメラを掲げたまま土下座した。
「那賀くん頼む! この動画を拡散しているサイトに潜入して視聴者の意識を変えて欲しい。このままでは役人だけでなく政府与党も叩かれてしまう」
自分の身を犠牲にしても社会を変革する。そんな幻想に酔っていたのだろうか。しかし恢復は雄武をただの酔っぱらいだとぶち壊した。
「この動画を見た人が、どんなことを書き込んだのか知っていますか」
恢復は冷たく言い放った。
「政府の無能な役人が上司に虐待される姿に喜んでいますよ。役人は絶対にクビにならない。安定した給料と莫大な退職金と年金を持つ上級国民だ。上級国民が痛めつけられるのは最高だって」
「そんなことが」
恢復は画面の中で顔をそむけた。
「こんな人のアドバイスを信じていた僕がバカでした」
「那賀くん」
「さよなら」
恢復は通信を切断した。雄武がアクセスしたが二度と繋がることはなかった。
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閉店したスーパーの入口はシャッターが降り蛍光灯が灯っている。横に階段があってボロボロのスーツで足を引きずって昇る。細長い通路の三階でカギを差しドアを開いた。
二棟続きの部屋には誰もいなかった。
痛みが寒さが雄武の体を畳に押し付けた。
もう動けなかった。




