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薬が効いている内に父の車に乗せられて行った病院で栄養失調と診断された伊織は、しっかり熱が下がるまで休んだ後三日ぶりに出社した。
ざわつく社内に入ってすぐ、伊織は社長の虎馬がいないことを確認すると、自分の席でスマートフォンを弄っている秘書の飯田へと向かった。
「飯田さん、社長と話がしたいんだけど」
「えぇ〜、勲ちゃん今日はまだ来てないよ〜」
「それじゃあ電話でもいいので、繋げてくれませんか?」
「ふぅん……まぁいいけどぉ。三日もサボった人が何様のつもりなんだか」
不貞腐れながらも社長に電話をかける飯田。
数秒後繋がったのか、くねくねとしなを作りながら話す飯田から受話器を受け取った。
「水沢です。社長、ご相談があるのですが、本日少しお時間いただけないでしょうか」
「ああ、水沢くんね。報告は上がってるよ。今日は出るつもりないから、用があるなら電話で言って。無断欠勤したらしいけど、それについてはどうなの?」
「それでは……今月をもって会社を辞めさせていただきたいのですが。それと、私が休んだ三日、全てきちんと連絡した上で休ませていただきましたので、無断欠勤には当たらないかと」
「……そう。いいよ。今月と言わず明日から来なくていい」
それきり切られた通話に伊織は小さく息を吐いた。
電話をかける前は緊張してあれこれと考えていたのに、終わってしまえばこれ程呆気ないものか。
怪訝な表情を浮かべる飯田にお礼を言うと、受話器を返す。
「お、おい。水沢……」
「沼田さん、お世話になりました。……それでは」
自分のデスクに置いていた私物を纏めると、戸惑っている沼田へ頭を下げる。これで、全部終わり。ぐるりと社内を見回すと、皆気まずげに視線を逸らしていく。
伊織がほんの少し重くなった鞄を持って会社を出ると、慌てた様子の内村が追いかけて来た。
「内村さん、お世話になりました。お先に、退社することになりました」
「そ、そんな……僕はもう年だし、転職するにしても君みたいには出来ないよ」
「……自分を幸せに出来るのは自分だけ、らしいですよ。それでは」
尚も何か言い募ろうとする内村を制して、己が恭子から聞いた言葉を告げる。
慌ただしく出社するサラリーマンが多いこの時間。
久しぶりにゆっくりと歩く伊織の顔は晴れやかだった。
◇◇◇◇◇
伊織は会社を出た足で、駅の近くの公園へと訪れた。
せっかくこんなに晴れているんだ。ただ帰るだけじゃ勿体ないだろう。と誰に聞かせる訳でもなく、ベンチに座り、青く澄んだ空を見上げる。
遠くから車が走る音が聞こえる。小鳥が囀る声が聞こえる。誰かが笑い合う声が聞こえる――――
――――世界は、こんなにも広い。
日々をただ歯を食いしばり、下を向いて生きているだけでは気付けなかった光景。
伊織がその景色を吸い込むように大きく息を吸うと、視界の端に大きなものが映った。
黒く、巨大な龍だ。
最初に見たものと同じだろうか。龍はやって来た電車と並走するように飛ぶと、あっという間に見えなくなってしまった。
もはや最初の頃のように怯えたりはしない。穏やかな表情で彼の行方を見つめる伊織の意識を軽快な着信音が遮る。
画面に映し出されたのは知らない番号だったが、伊織は特に警戒することなくそれを取った。




