3.夕暮れ
次の日の朝、千歳の夫は食卓で千歳と千草に帰りが遅くなったことを謝った。千草は全然気にしていないという風に、にこにこしていた。
驚いたことに、千歳も笑みを浮かべていた。
いつもなら、また女が恋しくなったのではないかとそっぽを向くところである。それが、何故か、ただ帰ってきて良かった、素直にそう思えた。
仲良く朝食を終えると、二人が学校と会社に出かけ、家には千歳とハチだけが残った。
「今日は機嫌がいいようですね、奥様」
「そうね。だけど、お前はそうでもないようね」
千歳は新しく注いだ紅茶に茶色い角砂糖を入れながら、上目で彼を見る。
「体調でも悪いのかしら?」
昨日の冗談の返しとして、訊ねる。
沈黙。
今度の沈黙は明らかに長かった。
「お別れです、奥様」
唐突な宣言。
何を言われたのか、千歳には理解できなかった。
「え?」
きょとんと、聞き返す。
「お別れです。私はこの家を出ていかなければならなくなりました」
何でもない、今日は雨が降ったとでも言うような、ありふれた口調でハチが続けるから、千歳も問い詰めることができない。
小さな少女が聞き慣れぬ言葉を耳にしたときのように不思議そうな顔をしている。
それは、昨日までの二人の奇妙な空間の続きだった。二人とも苦しいのに、二人の間には穏やかで優しい空気が漂っていた。そして今、同じように、引き裂かれそうなくらいに苦しいのに、苦痛の安らぎの中で終焉を迎えようとしている。
「戦争が始まりました。それで私たちは行かなければならないのです。人間の代わりに、戦争をしに」
千歳の瞳が揺れる。
「嘘」
そんなこと、できるはずがない。だって、彼らには。
「三大原則はどうしたの。あれが思考回路のプログラムに干渉している限り、アンドロイドは人間を傷つけられないはずだわ。戦争なんて、できっこない」
だから、恋をすることもできなかった。そのはずなのに。
「昨晩、開戦のニュースの後にアンドロイド徴兵の知らせが入り、そして三大原則を解除する電波が流れたのですよ。今なら、人間を殺すこともできる」
ハチは自分の指先をじっと見つめる。今まで人間を守ることだけに使われていたその体。
昨日の夜、千歳のために、千歳から距離を置いていたハチが、いきなり夜の散歩に千歳を誘ったのは、そのせいだったのだろう。
彼の、本当にささかな抵抗に胸が痛む。
「私たちは……なんて愚かなことを……」
「これでよかった、そう思いますよ。これで……」
ハチの声はささくれだち、ざらざらとしていた。ハチのこんな声は初めて聞いた。
「……すみません、お嬢様」
ハチが泣いている、そう思ったら、辛くて、千歳は踵を返して自室へ飛び込んだ。
こんなハチは、初めてだった。
いつだって、どんなに苦しくても、主人のために顔には表さないのがアンドロイドだ。こんなハチは見ていられない。こんなハチを前に、どんな顔をしていいのか、わからない。
頬に濃いオレンジの光を感じて、千歳はまどろみから目を覚ました。
時間が過ぎただけ、状況は何一つ変わらない。
優しい落日の灯火にうつむく。千歳の影は、絵本の影絵のように、どこか恣意的に、千歳の部屋に息づいていた。
「……寒いわ」
口を開けば、言葉が泡のようにゆらめいて立ち上る。
ベッドに突っ伏したまま、眠ってしまっていたようだ。まるで癇癪を起こした子供のように。
体を起こしても、華奢な肩を滑り落ちる毛布はない。
ハチは追いかけてこなかったのだ。
沈黙のまま……、それが何の抵抗か、葛藤か……、もう千歳にはわからない。
もはや誰にも、わかりはしない。
――ちぃちゃん?
リビングから声がする。
――なぁに?
ハチが千草を呼んでいるのだろう。今までとなにも変わらぬ声を、千歳は表情なく聞いていた。
千草はハチによく懐いている。
もしかしたら、あの年の千歳よりもずっと。
ねえハチ。ねえハチ。ハチ、ハチ……。なぁに、ちいちゃん。ねえ、ハチ……。
――今日ね、学校で。体育の時間で。
――うん。
――千草ね、一等だったのよ。走るの速いのよ。
――そう、ちいちゃん。すごいね。今度鬼ごっこでもしましょうか。
耳に流れるその声は、少女の小さな幸せのひと時の切れ端だった。平凡かつ平和な夕暮れ時。階下から、ハチが作ったのであろうカレーの、いいにおいがしてくる。
あまりに穏やかで平和だった。
守られている。
戦争が起こっても、千歳や千草には関係のないことだ。
この空間は、この平和は崩されない。続いていく。
私たちには関係のないことだわ……。
関係があるとしても、もっと……。
――そんなの、関係ないわ!
今となっては遠い昔のこと。
どこか遠くに行ってしまいたいと、少女の千歳はあてもたよりもなく町を歩き、そのまま家に帰れなくなっていた。
スカートの下、むき出しの膝小僧をかばうようにして、蹲る。
白く光っていた太陽は、いつしか真っ赤な夕日に成り代わっていた。じりじりと背中を焼いて、千歳をせかす。
千歳は涙を流すのを我慢して赤くなった両の目をせわしなく動かして家へと帰る道を探したが、見知らぬ道ばかり、更に夕日に陰る町は先刻とは異なる様相で千歳を包み、千歳は全く途方に暮れてしまった。時代がかった家屋が襲いかかるように大きく見えて、不安と焦りが口の中をからからにさせていた。夕日に焼けるアスファルトの嫌な臭いが鼻に突き刺さって離れない。
もう小学校にあがったというのに、勝手に家を出て迷子になっている自分が情けなかった。
家を出るときはぴかぴかだった制服は泥や土埃で汚れていた。細い足はかけずり回ったせいで疲弊し、立ち上がることもできない。
夕暮れが密度を増していくのを目で追いながら、千歳はただじぃっとしていた。
待っているのだ。
本当は最初から、それを望んでいたのかも知れなかった。
目を閉じて、赤い町を視界から消す。耳をすませる。
人気のない古い住宅街の狭い通りには、車の走る音もしなかった。
遠くで、暗示のように微かなサイレンの音が聞こえる。後は沈黙だった。
少女の細い肩は力なく下がって、首はがくりとうなだれていた。
しばらくの間、自分の顔がコンクリートの地面に作り出す影を漫然と見ていたが、何も起こらなかった。涙が一層暗い影を地面に落として、とうとう千歳は我慢できなくなり、携帯電話をポケットから取りだした。
まずは家の番号を押し、次に母の携帯電話、それから父の携帯電話の番号にかける。
どれも留守番電話に繋がった。
千歳は、子供の手には大きい携帯電話を握りしめて、すすり泣いた。
今までこんなことはなかった。
迷子になったり、不審者につきまとわれたりしたら、電話をかけて、すぐに両親が駆けつけてくれた。
仕事が忙しいときでも、電話に出ないなんてことは一度としてなかった。そしてそれは、自分がもう大人になったから、ではないことを千歳は知っている。
ハチを買ったからだ。
ハチを購入してから、千歳の両親はハチに育児を任せっぱなしにしていた。
万能である彼に任せた方が千歳の為になるだろうというもっともらしい理由をもった育児の放任。
――そんなの、関係ないわ!
ハチなんか大嫌い。
ハチがいるから……。
ハチがいなければ……。
自分を慕う、大きな機械が疎ましかった。
純粋に、人間でないものが怖かったし、いなくなって欲しかった。
完璧なものなんてほしくない。
幼い少女に、そこに価値は見いだせなかった。
それは恐ろしいだけだった。
ハチがいなければ、パパかママが迎えに来てくれるのに……。
ずっと、そう思っていた。
けれど。
この日。ハチへの嫌悪と憎悪が最大限に膨れあがったあの日、千歳のハチへの感情は反転した。
――ちっちゃなちぃちゃん。お嬢様。
――迎えに来たよ。
突然、小さな千歳の体が影に飲まれた。
驚いて見上げると、夕日の紅がさえぎられている。
目の前に、ハチの、愚鈍なロボットの姿があった。逆光で表情は見えないけれど、ハチが優しい顔をしているのがわかってしまった。
両親を奪ったハチ。
大嫌いだった。
人間ではないのに、人間の顔をして、人間ではないから馬鹿みたいに優しくて、従順で。気持ちが悪かった。
――怖くないよ、大丈夫。
視界の隅の赤い光が滲んだ。
大嫌いだったのに、嬉しくて。
ハチは、見つけてくれたのだ。
呼んでも、いないのに。
――僕はいつでも君の味方だし、いつでも君の幸せを願っているんだから。
ハチはおずおずと手を伸ばして、千歳の痩せた背中を撫でた。
母親と違うぎこちない動きに、千歳は唇を噛んだ。ハチは千歳を怯えさせないように、気遣っていた。その心遣いが、千歳の胸を針のむしろでくるんだ。
ハチはきっと、いや当然、わかっていたのだろう。
千歳がハチを拒絶し、憎んだこと。
そしてその千歳の憎悪に対する答えが、この、ただの優しい手のひらだった。
千歳は名前をつけられない感情に翻弄されて、呼吸を繰り返すことしかできなかった。
その瞬間、二人は哀れな同志だった。
求める者に見捨てられてしまった者同士、みすぼらしく夕暮れに佇んでいた。
――さぁ、おいで。小さなお嬢様。
――一緒にお家に帰りましょう。ねぇ。
「――小さなちぃちゃん」
「……」
糸がきれたように、千歳の身体が大きく沈んだ。
「……あ」
ベッドにぶつかる前に、再び平和な夕暮れへと意識が戻った。
今のは…。
夢の名残か幻聴か。
今ならぐっすりと眠れそうだ。
千歳は鼻で笑おうとしたが、うまくいかなかった。千歳の心に自嘲が浮かぶのと同時に、ドアが開いた。赤い光を照り返す、千歳の黒い瞳にそれがうつりこんだ。
黒くて大きな影。
小さな千歳が怯えて泣いた、得体の知れない、人間そっくりの大きな機械。
「……迎えにきたよ」
千歳は背筋をぴんと伸ばし、目を見開いてそれを凝視した。
逆光でよく見えないのはハチのほうだろうに、どういうわけか、対峙する相手の表情がわからない。
それはあくまでも、人間の面をしているというのに。
逆に自分の表情は、その上感情までも、相手の視線に捉えられている。
そんな気がしたし、実際にそうだったのだろう。
最後の夕暮れ、その束の間の静寂に、お似合いのささやかな緊張が走る。
諦観を含む電流は、腐敗の速度で二人をくすぐった。
「ちいちゃん?」
一歩。
千歳の黄昏に、ハチがやってくる。
夕日が照らす端正な横顔を見上げる。
あの頃と―――、あの日、あの瞬間と寸分もたがわぬ横顔。
あの日に知らずのうちに切り取っていた情景のフィルムが、勝手に目の前で揺れている。橙色の幻想に酔ったような心地がした。
そしてまた一歩。何気ない素振り、いつも通りのハチが近づいてくる。
あの日のように、細い手が伸びて…。
「……」
ハチは黙ったまま、千歳の冷えた肩を掴んだ。
羽毛の降る程度の力に、千歳の体はますます冷えていく。
ハチは千歳を見ない。
羽毛の降り積もった先に視線を落として動かない。
千歳とは違う、冷たい指。
どうすればいいのだろう。
思い付くことは全て、夢をみるような、過去の鏡を覗くような、曖昧なものに過ぎなかった。
既定の事実と未来を変えるにはあまりに脆弱で少女的で、全く役に立たない。
――……――…




