2.明け方
ダメな大人ばかり。
千歳は最初、自分よりもずっと背の高いハチに怯えていた。ハチを避けて母の後ろに隠れたことが何回もあった。
当然、ハチは諦めなかった。根気よく彼女の傍に膝をついて、自分の姿を慣らさせた。
千歳は徐々に心を開き、小さなお嬢様と大きなアンドロイド、友達のように親子のように、二人はよく一緒に遊んだ。
かけっこ、鬼ごっこ、ままごと――それでいてハチは流石、心得ていて、千歳が自分だけで満足してしまうわないように、適度な距離を保っていた。
アンドロイドには、絶対に守らなければならない約束がある。アンドロイドなどが存在しない時代に作家によって作られた掟である。掟は全部で三つあるが、要約すればこうである。
人間を傷つけるな。
それは何も、肉体に限ったことではない。
もちろん、相手は人間の心であるから絶対に傷つけない、なんてことはできない。そういうとき彼らは、傷を最低限に抑え、最良の道を進めるように思案した。
思春期を迎えた千歳は、ハチに恋心を抱いた。
美しく、何より自分のことを考えてくれる存在。
異性でなくとも恋に落ちただろう。
ハチは彼女の想いを悟り、そして牽制した。おもしろみのないアンドロイドではなく、人間は 人間に恋をするものだ。きっといつか、運命的な出会いが訪れる。それまで、その恋心はとっておきなさい。
千歳は泣いた。それは恋心の拒絶だったからだ。しかし、一方で理解していた。彼らには掟がある。人間の道を絶やすようなことはしてはならない。自分の意思などないも同然。
そう、作られている。
月日は流れ、ハチの言う通り、千歳は運命的な出会いをした。
大学で出会ったその男と過ごす毎日は、ハチの言った以上にロマンチックで情熱的だった。たまに、昔、ハチに戯れのような本気のようなキスをしたとき、ハチが顔を真っ赤にしたことや、ハチに告白したあの瞬間、ハチと自分の間にあった数秒の沈黙などが、痛みとともに思い出されたけれど、それは初恋の思い出というだけだった。
やがて二人は結婚した。二人の新居にはハチもついていった。千歳の夫はもちろん嫌がったが、ハチは非常に有能だったし、かしずかれるのを嫌がる人間はいない。すぐにハチを受け入れた。
千歳も夫も、千歳の幸せを願うハチも、満ち足りていた。不安なことなんて何一つなかった。平坦な人生なんてありはしないのに、未来も幸せなままだと、信じて疑わなかった。
長い時間を重ねていけば、多くのことが見えてくる。確かに、彼女の夫は情熱的で魅力的な男性だった。しかしそれは、千歳に対してだけではなかった。彼はたくさんの女性と付き合っていた。
千歳はそれを知り、夫に泣きついたが、彼はそれでも、妻以外の女性を愛することをやめようとしなかった。ハチはというと、彼を諫め、千歳を慰めることしかできなかった。
だが、状況はまた一転する。千歳は千草を産んだ。それで夫はすっかり改心したのである。
しかし、今度は千歳の方の心が離れてしまっていた。
どうしても夫を愛せない。
主人に最良の道を示すところのハチは、千歳に、夫を許すように勧めた。千歳もそれが一番いいとわかっていたが、気持ちを矯正することはできなかった。
ハチが戻ってきた。千歳の足元にハイヒールを並べる。
「ありがとう、ハチ。さぁもう帰りましょう。千草が一人でかわいそうだわ」
部屋に帰り、千歳は千草の横に臥せた。
「頭痛は和らぎましたか」
「もっとひどくなったくらいよ」
寂しそうにハチは微笑み、部屋をでていった。
頭痛は緩慢に千歳を蝕んでいる。その痛みは、今ではむしろ心地よかった。
ハチも千歳も、絶対に想いを告げることはできない。
どうあっても叶わない夢。果たせない想い。言えない言葉。二人の間に流れる針のような沈黙。
昔、少女であった頃は。
ハチを殺して自分も死んで、生まれ変わって人間同士出会い直そうと、馬鹿げた心中を計画したものだった。
結局鋼鉄のアンドロイドを殺せるわけもなく、計画は頓挫したが。
あの頃の彼女には、今の、痛みに甘んじている未来の自分なんて、想像もできなかったはずだ。
今はもう涙も出ないのだ。
千歳は昔の自分の恋の熱を微笑ましく思う。
計画を実行したとて、ハチは名のごとく、無限に続く途切れない一つの連なり。アンドロイドは輪廻などしない、再び巡り合うことはできなかっただろう。
頭痛と眠気が波のように行き来し、思考を覆う。
幼い日、温かな声の思い出が現れては消える。
――怖くないよ。大丈夫。
――僕はいつでも君の味方だし、いつでも君の幸せを願っているんだから。
――さぁ、おいで。小さなお嬢様。
――迎えに来たよ。
――ちっちゃなちぃちゃん。
かつて……、そう呼ばれていた頃の思い出。
明け方、薄い眠りの中で夢を見た。夕暮れ時、火の弾が茜空を流れる。一人の少女がそれを見ている。
戦争が始まる。どこか遠い知らない町でたくさんの人が死ぬ。
恋の痛みと人類の絶望、そぐわない二つが緩やかに溶け合って、千歳を安息の眠りに落としていく。
夢の中で見る夕暮れ。




