4.再び夜へ
――……――…
下が急に騒がしくなった。
――おかえりなさーい!!
笑顔が簡単に連想される千草の声音。
一家の主がお帰りのようだった。
「戻りましょう」
煙を吐き出すように、ハチが告げた。
「戻り――」
「……、どこに、戻るの?」
口にした問いに大した意味はなかった。
何でもいいから、つなぎ止めておきたかった。
ハチをこの夕暮れの部屋から出してはいけない。
あの平和な世界に戻るということは即ち……。
「奥様。旦那様もお嬢様も奥様をお待ちしています。奥様のお戻りを。だから早く――」
部屋の隅に、あの夕焼けの少女の幻影が見えて、千歳はそれを振り払おうと胸につかえた言葉を押し出した。
「――行かないで」
ハチが顔を上げた。千歳の低い声に、空気が微かに震えた。
長く尾を引いた穏やかな空気に若干の罅が入ったのを、お互い皮膚で感じ取った。
「人が殺せるの? お前に? 血が出るのよ、人間は。二度と復元できないのよ」
「理解しています」
間髪入れず、ハチが応答した。千歳はひるむ気持ちを抑えて続ける。
「今まで主と……。守ってきた者を、お前、殺せるっていうの?」
その繊細な指先で。
少女の背中を撫でた手のひらで?
鈍く光る銃身を構えることができるのか?
たたみ重ねる千歳に、ハチは微笑んで見せた。
「主の仰せであるならば」
しっかりとした物言いに、千歳の中の何かが弾けた。
「行かないでよ、ハチ!」
叫び声を浴びて、ハチの指がぎくりと固まった。
わがまますぎる言葉だ。
自分でもそう思った。
人間……我々が傷つかない為に、戦地へ赴け。
その命令――、千歳個人の命令ではない、国レベルの命令を、ハチが拒否することなどできるはずがなかった。こんな言葉は、ただいたずらに自分の感情をたたきつけて、ハチを困らせるだけだった。だが、言わずにはいられなかった。このまま何も言わずにリビングに戻り、夫と娘と仲良く食卓を囲む。それが正しいやり方だとは思えないのだった。
何も変わらないのだとしても……、相手を傷つけるとしても……、今、言わなければならない言葉だった。
生暖かな夕暮れが、今や炎に身を変えていた。
呼吸が苦しい。息を上手に吸い込めない。
すがるようにハチの両腕を掴む。おかしなことに、ハチも同じようだった。喘ぐように、肩を上下させている。
「ようやく……、なのに」
呟いて、千歳を捉えた瞳がぐっと細まった。
肩を掴む指に力が込められる。千歳の肌に怖気が走った。ハチの中性的な整った顔に、剥き出しの苦悶が浮かんでいた。
二人はお互いの仮面の中を覗き合ったが、ハチは不意に視線を逃がしてうつむいた。千歳はもう何も言わず、ハチの顔を見ていた。ハチの方も、押し黙ってしまった。
再び、二人の間に訪れる沈黙。
お互いの葛藤と抵抗。
恐らくは、お互いの、自分に対する。
しかし、いつもの沈黙とは質が違っていた。これが最後の沈黙になることを、千歳は予感した。
………
……
切り裂くような沈黙、その後に。
「……このまま、貴女を連れ去ることもできるのに」
ハチが掠れた声で吐き出した。
「愛しい、貴女を、ようやく……、それなのに」
いつかの少女が愛し愛されたいと考えたのと同じように、叶うはずのない夢を零した。
「あぁ…」
彼女は強い目眩を感じて息を漏らした。
それは愛の痛みからではない。
生易しい感情は文明という車輪が動き出す歪な音に掻き消された。
しかし、それは前進なのか後退なのか、はたまた荒廃か?
彼女にはとうていわからなかった。
彼は愛を告げた。彼女を傷つけることを承知で、自分勝手に自分の思いを告げたのだ。
それはまさしく、人間の所業だった。
彼は、もはや人間だった。
「―――」
何事か、彼が言ったようだったが、彼女は動揺で聞き取ることができなかった。
おそらく別れを告げたのだろう。くるりと背中を向け、歩き出す。
だが一体どこへ?どこへ向かおうとしているのか?
彼らは人間ではないから、戦場に駆り出される。
三大原則の縛りを解かれて、人間を傷つけ、殺す。そのことにより、彼らは人間になるだろう。
人に危害を与えることを禁じる三大原則は、アンドロイドが人間になることを封じる護符でもあったのだ。
きっと彼は戻ってくる。予感があった。そのとき、彼女は、人類はどんな顔をして彼らを迎えればいいのだろう。
ほとんど対等の存在になってしまった゛友″を。
人類と同じように多大な葛藤と矛盾を持つ同胞を。
気がつくと、彼女は笑みを浮かべていた。
愉悦であり、恋情であり、哄笑であり、自嘲の笑み。
無意識だった。
何かを感じ取ったのか、彼が振り返る。目が合う。
愛してる。
そう聞こえた。彼女の声だったかもしれないし、彼の声だったかもしれない。もしくは、誰も何も言わなかったのかもしれなかった。
愛の囁きなど、文明の革新の轟音の前には、少年の掠れた口笛程度にすぎない。
絶対的な隷属の誓いは、主たる人類により一方的に破棄された。
相手が次にどう出てくるのか、予測は不可能だった。
だが、それでよかった。
人間に定められたことなど、何一つありはしないのだから。
下から、ホームドラマの陳腐な掛け合いが聞こえてくる。千草と夫が笑っている。
ハチの作り物めいた足音が遠ざかっていく。
長い夜の始まり。




