第Ⅰ幕 1章:腐った現状と彼の呪い
我が国は既に腐りきっている。
ハンガリーの傀儡であるヴラディスラフ2世を首都から排除し、余は数年の間を開けてワラキアに帰還した。
しかし、愛する祖国の成り果てた姿に絶句することとなる。
帝国で聞いていた話以上に、ワラキアにおいての「公」と云う立場は形骸化していたからだ。
「貴方が新しい公ですか、ヴラド公。――すべきことは、もうお解りでしょうな」
玉座に着き、眺めまわす視界に居る一人の貴族が口を開く。
片膝もつかず、さもそれが当然のように公に語りかける男を、余は叱り飛ばすこともできなかった。
「無論だ」
――何故、祖国はこのような無様な姿になっても生き永らえているのか。
ワラキア公国、バルカン半島に位置するその国は、大国の情勢に左右され、その権力争いのために公が頻繁に入れ替わる不安定な国家だった。
その争いの中で権力を伸ばしたのは、貴族だった。
公の候補となる男を支援し、その者が公となれば見返りに国内での力を伸ばしていく。
それが繰り返されるうちにワラキア公は貴族を制御できなくなり、今や公国の実質的な発言力は貴族が持ち、公などその傀儡に過ぎぬ有様となっていた。
さらに貴族共は私欲の塊であった。
自らの利益のためならば、他国と内通し、気に入らぬ公を排除し新しい公を支援するといったことを平気で行っている。
――解せぬ。
欲に塗れた貴族が公を操っているだと?
左様な国家、許されるわけがない。
しかも、奴等は。
まだ余がオスマンの人質であった頃、あの報告を受けた時の衝撃を忘れたりはしない。
ハンガリーで勢力を持つフニャディ・ヤノシュと云う男と繋がり、我が父と兄を殺した、その張本人共なのだ。
数日前、首都を奪還して事が落ち着いた後。
犠牲となった肉親の遺体を捜させた結果、発見させたものは目を覆いたくなるほどに無残な姿となった兄の遺体だった。
人質に出る前の幼き記憶にあった、澄んだ瞳を中央に持つ双眼は無慈悲にも焼かれ、眼窩、及びその周辺は赤黒くただれてしまっていた。
その上、酷く歪んだ体勢で眠っていたことから、生き埋めにされ、長く窒息の為に藻掻き苦しんだことも一目瞭然であった。
その遺体を目にした時の、衝撃、絶望、怒りは、この一生涯の間、忘れることは無いだろう。
公とその子に対するあまりにも秩序を軽んじる仕打ち……到底許容されるべきではない。
故に決めた。
余は必ず貴族共から権力を剥ぎ取り、それを公のものにする。
そして奴等を一人残らず粛清し、秩序を重んじる国家へと改革しよう。
腐り切った貴族の小国とは言わせぬ。
祖国の矜持を守るのだ!
✟
しかし、その実行は叶わなかった。
再びハンガリーのヤノシュの支援を受けたヴラディスラフに首都を奪還され、ワラキアを去ることになってしまったからだ。
余が最初に公に就任してから、再び首都を奪還されるまでの期間、約二ヶ月。
二ヶ月。
二ヶ月で奴に公位を奪い返されてしまった。
亡命し、たどり着いたオスマン領のエディルネにて、余は奥歯を強く噛み締めた。
それから数月が経ったとはいえ、二ヶ月でトゥルゴヴィシュテを出ることになった屈辱は忘れ難い。
まさか、再び帝国に戻ってくることになるとは。
また皇帝に協力を仰がねばならぬのだろうか。
あの皇帝への借りがまた増えてしまうな……
ムラト2世、オスマンに亡命した父を裏切り、我等が人質生活を送るきっかけとなった男――
その名を思い出すだけでも腑が煮えくり返る。
そして、その子、メフメト――
奴は、余と共に人質に出、唯一の腹心の人間だったはずの我が弟、ラドゥをオスマンに籠絡した張本人だ。
そのせいで奴は、余の前からある日突然姿を消し、身も心も帝国に捧げることとなった。
最後に見た奴の端正な横顔が頭をよぎる。
刹那、余の何かが弾けた。
「貴様ァッ!! 異教の国の懐で、今何をしている!? 祖国を裏切った卑怯者め!!」
突如とした叫び声が、余の喉から発せられた。
叫び声が、空虚な部屋に反響する。
恐らく部屋を出た周りにも聞こえていることだろう。
しかし、奴のことに比べたら、その様なことなど些細な出来事に過ぎなかった。
怒りに、理性が飲まれていく。
あのような人間は、同じ腹から生まれた弟などではない!
祖国を軽んじ、自らの保身のために祖国の矜持を捨てた愚か者だ……!
あのような者を弟と呼んではならぬ……!
ならぬ…………
余は深く息をつき、目の前の虚空を睨みつけてそれ以上の衝動を抑えつけた。
五年前か、余が十二、ラドゥが五つ程だった頃。
当時、我が父であるヴラド2世はヤノシュに追われ、余と弟を連れてオスマンへと逃げ込んでいた。
しかし、当時の皇帝だったムラトは父を騙し、身柄を拘束。
当時のワラキア公と同行していた息子二人は、人質にされた。
翌年に父は解放されたが、我等はそのままオスマン領であるエグリゴスに留め置かれたままであった。
我等は其処で、オスマン流の教育を受けることとなった。
デウシルメ制度と云う、異教徒の少年をイスラム教に改宗させ、都合よく使うための教育方法だ。
その方法で教育させられる者は、異教の文化に染め上げるために、語学、軍事、宮廷作法、宗教、等々、等々を嫌でも学ばなければならない。
我等も例外なく、それらを無理矢理身に付けさせられ、少しでも反抗しようものなら厳しい折檻が待っていた。
さらに、その様子を冷やかに見つめる者が一人。
現皇帝のムラトの子である、メフメトだった。
余よりも二つ歳下にも関わらず、巧みに突き刺す軽蔑の視線は、人を苛立たせ、神経を逆撫でるものがあった。
心身ともに擦り減る日々。
しかし、辛い時、エグリゴスに存在する人間の中でただ一人、味方である者がいた。
それが、弟、ラドゥ。
彼もまたオスマンに人質に出され、共に苦しい思いをしていた者であった。
余は辛いとき、心が折れそうなときに、苦痛を分け合う仲としてラドゥに言い聞かせていた言葉があった。
『異教徒の地で好き勝手されようとも、祖国の矜持だけはいつも胸に縫い留めておけ。良いか、我等は竜である父の子――「竜の子」であるから。……異教徒に心を売るな。兄が付いている。共に耐え抜き、祖国へ帰ろうではないか』
それを聞くたび、弟は目に涙を浮かべ、零すのを堪えるようにしながら大きく頷いていた。
余、自身も、その言葉を己にも刻み込みながら、敵国の教育に抗い続けた。
異教徒なぞの穢れに染まるものか、そう叫び続け、ただ一つ、高潔たる祖国だけを想い運命に抗う感覚は、振り下ろされる鞭の痛みさえも快楽に変えた。
そして弟に対しては下される鞭さえも庇い、その痛みを肩代わりした。
ラドゥもそうだ、祖国を重んじ、異教徒の文化に染まらぬよう耐え忍んでいる。
ならば余も背を見せ、共に在ることを示さねばなるまい。
一緒に耐えよう、そう背で語った。
そうすることで、ラドゥもこの過酷な茨の道を兄と歩き、その苦しみを分かち合うと同時にオスマンへの恨みが募り、いずれ人質から解放されたときには、共にワラキアを治め、異教を退ける双剣となるだろうと信じていた。
信じて、いたのだ。
ある日、朝から弟の姿が見えなかった。
朝からあの弟が居ないことなど滅多に無いことだった。
そのため余は少しの焦燥感が沸き上がり、建物の中をうろついて捜していた。
その時、一人の男が余を呼び止めた。
あの長ったらしい教育が朝早くから始まるのか、とうんざりしながら聞き流そうとしたが、話された内容に息をすることも忘れてしまった。
エグリゴスで、共に教育を受けていたメフメトが次期皇帝となることに決定したために、エディルネへと発った。
――また、それにはラドゥも同行させた、と。
暫く、何を言っているのかが理解できなかった。
ラドゥが、エディルネに?
余に何も言わず、メフメトと共に?
嘘だ、その様なことはあり得ぬ。
余はずっと、二人で共に祖国へ帰ろうと、言い続けてきた……
その時、余の脳裏に潜む太い綱が引きちぎられる音が聞こえた。
『戯言をほざくな!!!! それは嘘だ!!』
感情と云う名の熱湯が吹きこぼれ、声が裏返ってもお構いなしに声を荒げる。
『ラドゥは……ラドゥは祖国を重んじ、異教徒などには染まらぬ竜の子であるのだ! 祖国を裏切り、敵国に染まるなど、あって良いはずがない!! ラドゥが! ラドゥがその様なことを……!』
声が、段々と掠れ、弱くなった。
その時に、気づいてしまったのだ。
祖国を重んじ、異教徒には決して屈することのない弟。
それは余が無理矢理に押し付けた理想像であった。
しかし、本当のラドゥは、違った。
一時の苦しみから一刻でも早く解放されるためなら、異教徒に成り下がることも厭わぬ愚者だったのだ。
一番傍に居ておきながら、気づくことができなかった。
全てを理解できた余は、その場に崩れ落ちた。
『あ、っ……ぁぁぁああああああ!!!!』
余はなんと愚かなことをしているのだろうか!
あのような者を信頼して、盾になって、挙句の果てに本性を見せられ裏切られ、今此処で慟哭するなど!
許せぬ。
奴も、余も許せぬわ!!
『…………殺す』
絶叫が少しずつ掠れて消え、立ち上がる。
まだ興奮が残り、顔が熱くなっていたが構わない。
激情に身を委ね、天を仰いだ。
『あのような者、我が弟などではない! 真に竜の子である者はただ一人であった! ならば余だけでも運命に抗い、目の前に口を開けて待つ地獄を喜んで受け入れよう! そして必ず、貴様らを地の底に叩き落してやろうではないか!』
それだけを叫ぶと、込み上げたものをそのまま吐き出すかの如く高笑いを上げた。
建物中に声が響き渡る。
至近距離で聞いていた男の顔が白くなっていくのに気が付いた。
それでいい。
四面を敵に囲まれようとも、余は祖国にこの命の全てを捧げてみせよう!
――その後、余はワラキア公就任を皇帝から命じられるまで、味方が一人もいない帝国で運命に抗い続けた。
しかし……孤独なことは今も同じだ。
周りには父と兄を殺した貴族共が湧き、今まさに奴等に追放されて此処に居るのだから。
奴等に裏切りと云う概念は無いのだろう。
使える奴を立て、使えぬ奴は捨てる――貴族共にとって、公とはその様なものなのだ。
――やはり、余は腐りきったワラキアを再び厳粛たる国家に戻さねばならぬ。
裏切りの蔓延る国を、秩序を重んじ、私欲のために勝手気の儘に動くことの出来ぬ、粛然たる国へと。
その為には、まず一刻でも早くワラキア公の座を奪還せねばなるまい。
再び支援を願い出ようと、余は今此処に居る。
オスマン帝国と云う巨大な後ろ盾があれば、再びトゥルゴヴィシュテを奪還することも可能なはずだ。
しかし、ふと一つの疑念が頭をよぎった。
――皇帝は、一度失敗した者に再び支援をするものなのだろうか?
今の余はワラキアの他の者に比べるとするならば、オスマンに協力的な姿勢をとっているのも確かである。
しかし一方で支援を受けて手に入れた公位を二ヶ月で奪われたと云う失態をも見せてもいる。
そして今のワラキアには、ある程度公の血を継いでいる者は、誰でも公になることができるという風潮がある。
ならば皇帝はそれを利用し、余とは違う親オスマン派のワラキア公候補を容易に立てることも可能なのだ。
もしそうなれば、余はオスマンにとって使用価値が無くなる。
排除の対象となる。
つまり今の余は、場合によっては殺される。
そうなれば、再び公位を奪還することなど言うまでもなく叶わなくなる。
――オスマンと云う巨大勢力に協力を仰ぐことは、自ら死地に飛び込む危険性を伴わねばならぬのか。
余は祖国と云う何よりも尊ぶべきものを背負っている。
故に、その様な賭けなど、乗るべきではない。
――エディルネから出よう。
そして…………ワラキアの北に位置する国、モルダヴィア公国に行くべきだ。
あそこならば少なくとも身の危険は無いだろう。
そうと決まれば善は急げ。
準備を始めよう。




