第Ⅰ幕 2章:束の間の安息
あれから暫く経った日、モルダヴィア公国にて。
「……突然の無礼をお許しください。ボグダン公」
「よくぞいらっしゃった、ヴラド殿。――まぁそう硬くならずに、モルダヴィアは貴方を歓迎致します」
「…………!」
モルダヴィア公、ボグダン2世。
その方は、余の母方の叔父にあたる人である。
元々はオスマンに後ろ盾になってもらうつもりであったが、急遽予定を変更し逃げてきたため、突然の訪問と云う形になってしまった。
しかし、血の繋がりがあるとはいえ歓迎してくれることに感謝するべきだろう。
此処ならオスマンのように見渡せば異教徒がこちらを覗いているわけでもない、今までに比べたら幾分か息を抜けるような場所であった。
「そうだ、ヴラド殿。貴方に紹介したい者がいる」
余が少しだけ緊張を解いたのを察したかのように、ボグダン公が口を開いた。
口ぶりから、その者が誰かは幾分か予想がついた。
「……シュテファン殿ですか?」
「ええ。そういうわけだ、シュテファン! 此処へ」
その方が余の後ろの空間に呼びかけると、物陰から微かに気配がした。
「既に居ますよ。――初めまして、でしょうか、ヴラド殿」
後ろを振り向くと、余より幾つか歳が下であろう男が、壁に寄りかかりこちらを品定めするかのように見つめていた。
ボグダン公が彼の非礼を注意すると、その者は姿勢を直し、改めて片膝をついた。
そして恭しく口を開く。
「――申し遅れました、ヴラド殿。私の名はシュテファン。知っての通り、ボグダンの子――貴方の従弟にあたる者です」
彼は言葉を切って顔を上げると、唇の端を吊り上げた。
その笑みは、彼に不敵な印象を与えているようであった。
彼が立ち上がると、余も公に促されるまま、胸に右手を当て軽く頭を下げて、彼を倣った言葉を紡ぐ。
「お初にお目にかかります、シュテファン殿。ヴラドと申します。以後、お見知りおきを」
その言葉に男――シュテファン殿は納得したようにフンと鼻を鳴らすと、余の肩に手を置いた。
「これからよろしくお願いしますね、ヴラド殿。これから此処で一緒に過ごす従兄弟同士なのですし、どうか羽を伸ばしていってください!」
「シュテファン! 馴れ馴れしくしすぎだ。――申し訳ないです、ヴラド殿。どうか愚息の非礼をお許しください。しかし、彼の言う通り、我等と貴方は血縁関係。そう硬くならずにいてくれれば、こちらも余計な肩の荷を降ろせると云うもの」
「ええ、血の繋がりは強いですからね……この国に私にとっての不穏分子もありませんし、他の何処よりかは張り詰める必要も無さそうです」
それを聞いたモルダヴィア公の親子は、明らかにほっとしたような表情を見せた。
「良かった! じゃあ良かったら仲良くしてくださいよ! ヴラド!」
「ヴラ……」
「シュテファン!!!!」
こうして、余のモルダヴィア公国での暮らしが始まった。
其処での生活は、悪いものではなかった。
余はボグダン公の息子と共に、モルダヴィアの修道士の許で、同じ正教会の国である東ローマ帝国の学問を学んだ。
かつてオスマンの人質であった時に学ばされた内容とは違いが大きく、異教の知識と学んだそれを比べては、その差に目を丸くした。
そしてよく、彼と――シュテファンと語り合った。
「……ヴラド、ワラキアでも貴族が公よりも強い力を持っていると俺は聞いているのですが……本当なのですか?」
「ええ、その通り。しかも、ただ台頭している訳では無い。貴族共が勝手にハンガリーなどの強力な国と手を結び、今の公を排除し、自分に都合の良い新たな公を立て、気に入らなくなれば排除する、と云うことも珍しいことではありません……そちらも、似たようなものだと伺っていますが」
「本当だったんですか……ええ、こちらも同じような感じですよ」
彼とは従兄弟同士と云うこともあり、たちまち意気投合することとなる。
――我が生涯において始めてできた「友」は、彼だったのかもしれない。
人質に出る前も周りは公を軽んじる貴族共に囲まれ、オスマンではラドゥに裏切られ、手を差し伸べてくれる者など誰もいない状況で育ってきたからだ。
こうして叔父に歓迎され、従弟と友になり共に学問を学ぶ未来など、あの頃の余は想像できただろうか。
故に、時折考えてしまう。
もし彼さえも余を裏切ってしまったら、どうなってしまうのだろうか。
しかし、その彼が時折浮かべる不敵な笑みを見るたびに、余の疑念は拭い去られるようであった。
「……そうなのですか、全くひどいものですよ。シュテファン」
……彼に、伝えるべきだ。
余が目指すワラキアの姿を。
「ですから、私は腐敗したワラキアを再び誇り高き祖国に戻してみせます。貴族が公にひれ伏し、『裏切り』と云う単語が排除されている、その様な国を」
シュテファンは目を少しだけ丸くさせると、「へぇ」と感嘆のため息をついた。
「ヴラドにしては大きいことを語るではないですか」
「『ヴラドにしては』とは何です、『ヴラドにしては』とは」
彼は誤魔化すように「へへ」と少しだけ笑うと、彼も改めたかのように口を開いた。
「ヴラド、友情の証に……一つ、約束をしてくれませんか」
「約束、どのような……?」
突拍子もない提案に、少しだけ気圧されてしまった。
その様子など気にしていないかのように、彼は続ける。
「俺も、貴方も。いつかは武力で公位をもぎ取らねばならない時が来るでしょう。その時には、互いに支援するのですよ。確実に二人が玉座に座れるように」
「……つまり、私と貴方で同盟を結べ、と云うことでしょうか」
「極端に言ってしまえばそうですね。つまりですよ、俺が公位争いで困った時は貴方が援助してくれる。貴方が困った時は俺が肩を貸してやる、と云うことです」
友情の証の、同盟。
そう簡単に決めてしまっても良いものだろうか。
しかし、機会が訪れて公に返り咲く時にはモルダヴィアの援助が確実に手に入ると云うことは、できるだけ早くに首都を奪還したいこちらの身には好都合だ。
向こうが同じ状況の時も支援をすることが必要なようだが、時を見計らってくれるならば大した問題にはならないだろう。
それに、初めてできた友だ、その提案なら聞いてやらんこともない、それも彼との間なら通用するだろう。
「承知しました」
暫くの静寂の果てに余が肯定の返事をすると、シュテファンはいつもの不敵な笑みを浮かべて「約束ですよっ!」と言質を取った。
私もそれにつられて無自覚に口角を上げていたらしい。
声を上げて笑い出した彼を見てそれに気付き、再び平常に戻った。
だが、この穏やかな日々も余がワラキアに戻るまでしか続かぬと考えると、少しばかり寂しい気もあるかもしれない。
だからこそ今は、此処で学びながら、ゆっくりと羽を伸ばすとしようではないか。
✟
しかし、その暮らしが長く続くことはなかった。
余が公国に亡命してから二年程が経った頃、我等の許に、耳を疑うような報告が入ったからだ。
ボグダン公が、暗殺された、と。
「――そんな!? 嘘だ! 父上!! 父上!!!!」
「公が、か? まさかそんな……」
ボグダン公の政策に反対する貴族による犯行だと言われ、我等、特にシュテファンは、呼吸の存在を忘れる程の衝撃を受けた。
まだ公は即位してから二年で、権力も充分に集まりきっていない状態だったのにも関わらず……
――しかし、貴族の反逆、それはつまり、このままモルダヴィアに居座ったら、余も、シュテファンも、成す術もなく殺される危険が限りなく高いと云うことだ。
つまり、我等はまた別の国に匿ってもらわねばならない。
ワラキアは勿論のこと、オスマンも命の危険があるため行けはしない。
と、なると、消去法で……
「トランシルヴァニアに行くのですか!?」
「ええ、あそこの領主にてハンガリー王国の貴族であるフニャディ・ヤノシュは、対オスマン側で、宗派は違えど同じキリスト教徒です。ヴラディスラフの件もありますが、今頼れる人は彼しかいないのです」
トランシルヴァニアとは、ワラキアから見て北西、モルダヴィアからは西に位置するハンガリー領である。
我等はこれから、その土地に逃げようとしていた。
机上にモルダヴィアと周辺国の地図を広げ、我等は次の行動を話し合っていた。
シュテファンが彼の祖国の上に指を乗せ、すっと音を立てながらそれを隣り合ったトランシルヴァニアに滑らせる。
余の言葉が何を意味するかを確かめるかのように。
「それもそうですが、ヴラド、忘れたわけでは無いですよね。ヤノシュと言うと……」
「――忘れるわけが」
ヤノシュ、彼は我が父、兄を殺すようワラキアの貴族共に指示した黒幕であることには変わりない。
兄の遺体の惨状を思い出せば、彼の許に赴き、その協力を仰ぐなど。
屈辱でしかない。
しかし、この際背に腹は代えられぬ。
決意を固めるように、拳を作った手を解き、再び強く握り締めた。
その動きを見てたであろうシュテファンが、一度だけ天を仰ぐ。
「……分かりました」
男は余を真っ直ぐに見つめると、無言で再び地図に向き直った。
「申し訳ないです。貴方をワラキアの権力抗争に巻き込むことになる」
「いいってことですよ。どうせ俺もモルダヴィアの中での居場所はなくなったのですし」
「……感謝します」
友は余の一言に少しだけ笑みを零すと、静かに地図を片付け始めた。
静寂に、羊皮紙の擦れる音と彼の足音が交互に響き渡る。
それを終わらせると、彼は呟いた。
「準備が、必要ですね」
「……ええ」




