第19話:祖父と孫娘
二十畳ほどもある広大な和室の中央に、大きな寝台が置かれていた。そこには頭髪が真っ白になった老人――灯紫喜 克重が横たわっていた。
障子戸は締め切られ、室内は薄暗い。
「よう、邪魔するぜ」
克重の返事を待たず、障子戸が開かれる。
空気の流れを感じ、克重は声の方へ視線を送った。
「どなたかな?」
「最後にお会いしたのは、かれこれ40年くらい前でしたかねえ。――甲斐荘子爵家の次男坊、喜親です」
克重は記憶を辿る様に瞬きをした後、思い出して頷いた。
「天才発明家の。御無沙汰しておりましたな」
「お互い年を取りましたな」
日本松は礼儀正しく頭を下げた。
「見舞いに来てくださったか。もてなしもせず、使用人たちの教育が出来ておらず、お恥ずかしい…」
「気にせんでください。俺は付き添いにきただけで、見舞いはついでなんでね」
「付き添い…?」
「ええ、彬子のね」
半開きだった克重の双眸が、大きく開かれた。
「彬子が帰って来ているのですか!?」
「林太郎と対峙していますよ」
「なんと…」
驚きのあまり、克重の老体が震えていた。
目を瞑り、何かに思いを馳せているようだった。それを見て、日本松は口を閉じる。
その場に、暫しの沈黙が降りた。
「私は、喜親殿に憧れておりましてな」
「ほほう?」
唐突な自分への評価に、日本松は頬を掻いた。
「稀代の発明家、発明品で甲斐荘子爵家は繁栄し安泰。あなたは家を出て、その身一つで会社を興しておられる」
「ははっ。ありゃ実家が勝手に俺の発明品を利用して、商売っけを出して今の有様よ。まあ金はいくらあっても困るもんじゃないしな、時々は新作を提供しちゃいるが」
「素晴らしいことです。そして、身体をよく鍛えておられますな。それに比べ、私の情けないことよ…」
「心臓の病を、患っているとか」
「あなたを前にして言うのもなんですが、齢ですな」
「俺の場合は、他人より頑丈に出来てるだけです」
2人は声を出さずに笑った。
「――報告にありました。彬子は、あなたの庇護を受けているようですね」
「ええ。8年前に拾いましてねえ。散歩してたら頼りなげな婦人が、川辺をフラフラ歩いてる。こりゃ危ねえ、なんかある、と思って声をかけたんです」
夕焼けに染まる川辺で、彬子に出会った。
絶望を顔に貼り付け、ひさし髪に結った髪は乱れに乱れ、上品なドレスは煤けていた。
声をかけただけで彬子は泣きだし、慰めるともっと泣き喚いて、日本松は狼狽えてしまった。
「俺は泣いてる女が心底苦手でしてねえ。――俺の親父、先代の甲斐荘子爵は女好きだった。町の数だけ愛人がいる、って豪語するくらい酷い親父だった」
嘲るような笑みを浮かべる日本松に、克重は眉間を寄せた。その噂は、克重も知っていたものだ。
「お袋は毎日のように、親父の乱交に泣かされていた。少しも家に寄りつかない親父に腹を立て、愛人たちを呪い、俺たち息子に浮気は悪行だと説いていた」
かつての母の泣く姿に、彬子の泣く姿が重なって見えた。
「話を聞くと、浮気を疑われて家を追い出されたって言うじゃねえか。男は浮気をしても関白面してられっけど、女は犯罪者扱いだ。――彬子は浮気はしてねえ、あんな世間知らずのお姫様が、浮気なんてすぐにバレらあな」
「……そうですな」
「克重さん、あんただって、本当は彬子が不貞を働いたなどと、信じちゃいなかったんでしょう。何か事情があったんだと、俺はそう思ってるんですがねえ」
克重が小さなため息をついたとき、
「失礼します」
障子戸の向こうで、彬子が声をかけた。
「どうやら、あちらのカタはついたようだな」
日本松が障子戸を開けると、彬子は目を丸くした。
「まあ社長、こちらにいらしたんですのね」
「克重さんを見舞いにな。そっちは、無事済んだようだな」
「はい。おじい様にご挨拶と、報告にまいりました」
「祖父と孫、ゆっくり話すと良い。明日出社しろ」
「判りました。ありがとうございます」
「じゃあな」
日本松は克重に目礼して、部屋を後にした。
彬子は障子戸を閉め、その場に佇んだ。
(なんて言い出せばいいのかしら……、ただいま? ご無沙汰しております? 許しもなく屋敷に入って、ただいまっていうのもヘンだし…)
「こちらにきなさい」
「はっ、はい」
穏やかに言われて、彬子はそそくさと克重の傍に寄った。
傍に来た彬子を眺め、克重は目を丸くした。
「なんとも御侠な姿よのう…。私の知る彬子は、もっと清楚な服をたしなんでいたような」
「こっこれはっ」
今はバッスルドレスの前スカート部分を、大きくたくし上げて両サイドで留めてある。その為黒タイツに包まれた脚が丸見え状態だ。
普段はこのまま街を闊歩してても気にならないが、急に恥ずかしさを覚えて顔を真っ赤にする。
「せ、戦闘服なんです! 女を捨てず、女だと侮られないようにと、社長が選んでくださいました」
「ふはははは。そうか、喜親殿が。そうか、そうか」
克重は楽しそうに声を立てて笑った。
「浮気調査会社だったかな。仕事は楽しいかい?」
「はい、はいええ」
彬子は目を輝かせる。
「社長が発明なさったこのキャメラ子で、ターゲットの浮気現場を撮影するんです。私は撮影担当で――」
彬子は自分の仕事について、必死に熱弁をふるった。それを克重は面白そうに聞いている。
部屋の中が暗くなるまで話は続いた。
「いやだわ、私ったら夢中になって」
「久しぶりに面白い話が聞けたよ」
穏やかに微笑む克重を見て、彬子は表情を改める。
「おじい様、お訊きしたいことがございます」
「なんだね」
「どうしておじい様は、『虚実綴り』をお使いにならなかったのですか? 灯紫喜家の経済状況のこと、有島から聞きました」
克重は彬子から天井へ視線を移す。
「私は臆病者だ。先代まで行っていた『虚実綴り』による、他人の記憶操作が怖くて、出来なかったのだよ」
「おじい様……」
「富や権力を得ることも、人心を掌握するのも、『虚実綴り』を使えばいとも簡単に出来てしまう。『虚実綴り』は壮大な騙しだ。それが心底怖くて、使うことが出来ないのだ」
だから、と言って克重は己の右手を布団から出した。
「私には何もない。才能も行動力も。挙句、異能を奮う勇気もない。――喜親殿が羨ましいよ。才能と才気に恵まれ、富も名声も自らの力で勝ち取っている。自分と比べることもおこがましいほどに」
「そんな、おじい様!」
「だが、私の孫娘は違う。逆境に打ち勝ち、自らの脚で前に進み続けている。8年前の私の判断は、間違っていなかった。そのことだけは胸を張れるよ」
「ど、どういうことですか?」
そっと目を閉じ、克重は重いため息をついた。
「8年前、林太郎に彬子が不貞を働いた、追い出したい、そう訴えられた。正直信じてはいなかった。だが、お前たち2人が仲の良い夫婦ではないことは、知っていた。いずれ破局するならば、この機会にお前を外の世界へ、逃がしてやれるのでは、そう思ったのだ」




