第51話/99話 「知る これが世界の広さだと」③
〇
じゃあね、と、互いに手を振り、師匠との待ち合わせベンチへ。
「戻りました」
「……なんて顔してんのよ。会場行くわよ。ちゃんと聴けるんでしょうね」
師匠の声で、アタシの足に力が戻ってくる。
地に足が付かないって、さっきまでのアタシかな。たぶん意味が違うけど。
「大丈夫です。……どんな顔してますか」
「……顔洗ってからにしましょうか。コンタクトも外しちゃって。……切り替えて、演奏を聴くことに集中して。まあ、あんたの集中力は疑ってないから。」
「……はい。」
何人かの午後の奏者の演奏には間に合わなかった。
なんだかげっそりして力の入らない、そんな気分を。
ひたすら耳と思考に集中することで乗り切って。アタシは午後の部、奏者の演奏を聴いた。
「どうだった?」
すべての演奏が終わり、客席に座ったまま、師匠が訊いてくる。
「そうですね。……みんな上手かったです。アタシと差があるのがわかりました」
アタシと同じように聴こえる音。
他の課題曲を選んだ人のものは、そこまではっきりとは、わからない。
ただ、少なくともアタシと同じ課題曲の人たちは、はっきりと、――特に細部に、差があった。
音の立ち上げ、スタッカートのキレ、ビブラートの配分の精度、クレシェンドのほんのわずかによどみない広がり、逆にデクレシェンドのしぼみ。フェルマータの消えるような溶け込み……etc。
フルートをやっていなければわからない、やっていても、人によっては聴き比べなければわからない、人によっては聴き比べてもわからない。そんな、ほんの少し、の差。
その、ほんの少し、にアタシたちは他人の努力を見る。
アタシは続ける。
「でも、来年には超えられる。そう思ってるから、師匠は、『集中して聴け』って言ったんでしょう?」
昨年、『全楽』の予選を聴いた後は、差を測る、とかそういう事態ではなかった。なにしろ、その場で感じた誰もが上手くて。誰が上手いか、どう上手いかもわからなかった。
今はそうではない。
今日聴いた子たちは、確かにアタシより上手かったけれど、アタシとあの子たちの差は、あの子たちと師匠との差よりずっと小さい。なんなら、アタシが師匠の音を目指す、その方向性や距離を測る、物差しのようにも感じるくらいだ。
「そうよ。いい顔になったじゃない。相変わらず可愛げないけど」
「ええ~~。かわいいって、言ってくださいよぉ」
「ションベンくさい小娘がナマ言ってんじゃないわよ」
〇
結果発表の会議室。
文化ホールや県民会館は、広いスペースのある大きな廊下の掲示板に張り出す形式だったけど、マッハホールは、会議室らしい。
予選の結果発表は、あらかじめ名前が書いてある紙に、それに順位と、賞が書いてある形式。
本選は、順位が上から、紙に名前と賞を書いていく形式。
アタシの順位は9位。名前の横にある『金』の文字は金賞を示す文字。
金賞も、基準点を超えた者に与えられる。基準に満たなければ本選出場でも銀賞。順位はまた別だ。
なんだ、悪くないじゃないですか。全国レベルじゃない、なんて、師匠。
1番上に書いてある人の名前の横には『優』の文字。
その文字を見ながら、アタシは隣に立つ師匠に尋ねる。
「師匠」
「ん~?」
「一番上の人、『最』じゃないんですね」
去年、アキの表彰式で見た、一番上の『美雲アキタカ』の名前の横にあったのは『最』の文字と、リボンで作られた大きな花。
今見ている、フルートの結果発表の紙にはどちらもない。
意味の分からない質問にもとれるが、ちゃんと師匠は応えてくれる。
「ああ、優勝は優勝。最優秀は、今年は該当者なし、って意味でしょ。優秀賞まで」
「そういうこともあるんですか」
「審査員何人かいるから、その付けた合計点が基準に満たなければ、そういうことよ。一番点数は高くて、優勝したけど、コンクールの最高栄誉は与えられない。まあ、『全楽』の場合、優勝者には『お大臣賞』が自動的に行くから、十分でしょうけど」
「ふうん。アキってやっぱりすごいんですね」
「……審査員の好みで点数なんて変わるから、去年のコンクールと今年じゃ比較できないわよ。楽器も違うし。……いや、そんなことないか。あんたのお友達は審査員関係ないわよね」
師匠はそんな風に言う。
まあ、アタシの現在地は何位でも変わらない。
明日からまた音を磨くだけだ。
と。
「あ! シオリ~~!」
笑顔のカヤが駆け寄ってきた。
世界のかわいさを一身に集めたような雰囲気で。
アタシの前に立ったカヤは、師匠に、上目遣いでペコリ、と挨拶し、師匠もそれにうなずきで返す。
カヤは、下ろしていたアタシの右手を両手で握ると、
「すごいねえ! 9位なんて! おめでとう~」
少し興奮しても、どこかに甘さを含んだ声でそう言った。
そういえば、カヤの順位は見ていない。
少なくとも、アタシより上にはいなかった。
「うん、カヤもお疲れ様」
鍛えた表情筋の口角を上げ、笑顔でアタシは応える。
「悔しいなあ! 私、自分と同い歳の子が、こんなに出来るなんて思ってなかった! 甘かったなぁ……。本気でフルートに専念しよう。次はシオリに勝ちたいなぁ……!」
カヤは笑顔でそんな風に言う。少しの悔しさも、その顔や口ぶりからは、見受けられる。
「う、うん。アタシも、もっとがんばるよ。9位じゃなくて、もっと上を」
「ええ~。そんながんばらなくていいよ。私、追いつけなくなっちゃうじゃん、な~んて……。そういえばさあ、シオリは、パパとかママに何を買ってもらうの?」
雑味を取り除いた蜂蜜を、ものすごく薄く溶かしたような、澄んだ甘ったるい声で、カヤはそんな風に言う。
「買ってもらう?」
「そうそう、ごほうび的な! 5年生で、全国本選出場で、私よりずっと順位上なんだから、すごいがんばったんでしょ? シオリのパパたちだって、その努力見てるよね? すごいもの買ってもらえるんだろうなあ。いいなあ……」
ごほうび。そんなもの、アタシは考えたことが無い。
……。
…………。
言葉に出来ない。
もう、わからない。
アタシの努力もわかった上で……。当然だ。努力してないやつなんて、この会場にはいない。お互いに、その価値は知っている。その価値を認めたうえで、カヤは、多分本気で悔しがって、上を目指そうとしている。多分アタシの実力だけでなく、その裏にあるものも認めてくれている。
でも、アタシはわからない。何がわからないのかもわからない。カヤを目の前にしたざらつく感情、いや、ねばつく感覚がわからない。
顔を逸らして、逃げたいけど、手を掴まれているので、離れられない。
師匠、助けてください。
目の前にいるのは友達なのに、そんな風に思う。
「あ……。その、まだ決めてなくて」
「そうなんだ。私は何にしようかな。新しいプレステとかかなあ……。友達が来ても、ゲーム古いと、ちょっと恥ずかしいもんね。う~~ん」
「……」
アタシの家には、テレビゲーム機だってない。
そういえば、カヤ、ずいぶんテンション高いな。
そんなことを考える。おそらくはアタシの思考放棄だ。
「ま、いいや。でもまた、会いたいな! 次に出るコンクール決まったら、絶対連絡ちょうだいね! ああ、楽しみ。同じ会場で会えるだけで楽しみだなあ!」
次は絶対勝つからね~~!
そんな風に言って、ずっと笑顔のまま、カヤは去って行った。
振りあった手に、寂しさのようなものを感じる。
師匠は、アタシの肩を抱き、一言こういった。
「帰りましょうか」
〇
暗い中を走る、帰りの新幹線の中、師匠は昨夜と同じ言葉を言った。
「敵の姿は見えたかしら」
「……わかりません。……友達です。せっかくできた友達なんです。初めての、フルートの……」
「そう」
並んで座って。アタシの視線は、ずっと下の方。
アタシは、師匠の顔が見られない。
「……カヤは、いい子なんですよ」
「あら、あたしだって、あの子の歳くらいの時は、いい子だったわよ。あんたなんかより、ずっと」
「……同じ歳の師匠より、たぶんカヤの方がいい子です。口も悪くないし」
「ほんとなのになあ」
……。
少しの沈黙。
アタシは思わず、前夜、師匠に言ったのと、逆のことを言ってしまう。
「……どうして、アタシをここまで連れてきたんですか」
「……」
師匠は、応えない。
違う。そうじゃない。
フルートが上手くなりたいと言ったのはアタシで、師匠じゃない。
「……ごめんなさい」
「謝るなって、いつも言ってるじゃないの」
師匠が、去年、見せてくれた、予選会場の結果発表。その光景を見たことには多分、意味があった。そして、今日見たものも、多分、師匠は意味があると考えている。
なんにでも意味を求めるな、意味があると思うな、理屈で納得しようとするな。師匠はそんな風に言う。
でも、きっと今日のこれは、意味があることなんだろう。
アタシは、昨夜と同じことを言う。
「……師匠」
「ん」
「……ごめんなさい。ここに連れてきてくれて、ありがとうございます」
「……無理しなくていいわよ」
少しの沈黙。
師匠の質問。
「シオリ、フルートは好き?」
「……。……嫌いです」
こんなもの、見たくなかった。
フルートをやらなければ、見なくて済んだ。
超えられるもの、越えられないもの。手に入るもの、入らないもの。
持っているもの、いないもの。欲しいもの、そこにあるもの。
「そ。でもどうせ、あんた明日も吹くんでしょう」
「……吹きたくないです」
全日本楽器コンクール、第9位。今のアタシの順位。
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第51話/99話 「知る これが世界の広さだと」 終




