第49話/99話 「走る アタシの速さで」
〇
11月14日(月)
「おはよう!」
「おはよ」
朝5時。
日の出までは1時間以上ある。
暗い。慣れているから見えるけれど。
運動用のジャージが目立つ色なのは、他人から見えやすいように、危なくないように、なのかもしれない。
気に入らないけど。
去年買ったときは大きかったビビッドピンクの防水ジャージが、今はあまりぶかぶかではない。
「急に冷え込んだねえ」
アキがそんなことを言う。
昨日は昼間も、夜間も晴れだったから、放射冷却が起こっているのかもしれない。
寒いと、空気がきれいな気はする。団地の、埃が舞う空気は、昨日の文化ホールの清浄な空気とは比べるべくもないけれど。
集合したアタシたちは、いつもどおり、ランニングのために学校へ。
気温が低くなると、少し、口数も少なくなる。
「……『全楽』、本選出場おめでとう」
ふう、ふうと。
ランニングを終えた帰り際、呼吸の乱れたまま、唐突に、アタシは並んで歩くアキに言う。
唐突にというよりは、タイミングをずっと計っていて、――言うタイミングなんぞ、そうそう無いだろうな、と観念したからだが。
「ええっ、なんで知ってるの? あ、ありがとう」
「ん。内緒」
意表を突かれたか、アキは少し驚いた顔をする。
アタシのフルートとアキのトランペット、会場は違えど、2次予選はどちらも昨日だ。
なんで、知ってるかって……。
アンタが負けるわけないからだろ。少しの反発と共に、そんな風に思う。
アタシの言葉は祝福じゃない。知っていたわけでもない。ただの確認だ。
どうせ、アタシから言わなきゃ、自分から言わないんだろうし。
美雲アキタカはそういうやつだ。
「そ、それで、……シオリは……? ……どうだった?」
少し遠慮がちに、訊かれたから、自分も訊かないと、という態度で。
なんだか、悪いことをした幼児のように、アキは訊く。
……アタシは、しょせんその程度だ。コイツの信頼なんかない。
それでも。
「通った! 本選に行く! 全国に行く!」
朝の住宅街の迷惑にならないように、少し音量を抑えた声で、それでも力強くアタシは言った。
「ええっ、本当?」
「本当だよ」
アタシがウソつくわけないだろうが。
……時々、つくけど。
大体、アタシは、自分の結果が悪かったら、その話題を出さない。
相手の結果が悪い時に、その話題を出さないアンタとは違う。
自分の結果が悪い時に、積極的に開示するアンタとは違う。
「おめでとう!」
「わぷっ」
隣で歩いていたアキが、抱きついてくる。
そのまま、アタシの背中を両手でバシバシと。
少し、驚いたが、アキが離れたので、そのまま再度歩き出す。
「すごい、すごいなあ。フルート始めたの去年なのに。何年もやって、歳の上限の中学校終わるまでに、本選1回でも出られる人はほんとにすごい、そんな風に聞いたのに」
笑いながら、興奮した顔で、アキは言う。
……アンタ、去年、小学4年生で全国優勝、文部大臣賞だろうが。
そんなツッコミを表には出さず。アタシは少し、意地悪に言う。
「ふん、だから、今年は、アンタの応援には行けない」
「いいよ。……友達がどこかで、同じ日にがんばってるってだけで、応援になるよ」
…………!
心臓が、ずぐん、と掴まれたように。
なんつう、模範的な答えをするんだこいつは。
思わず、絆されそうになる。
だからアタシは、自分の話をする。
「師匠は、まだ少し全国レベルじゃないって言うんだけどね」
課題曲だけは悪くなかったけど、他はまだまだだからね、調子乗るんじゃないわよ。
昨日、帰り際そんな風に師匠は言った。
みっともなく泣くほど喜んでくれた後でも、師匠は厳しくて……かっこいい。
「いや、それでもスゴいよ。まぐれで出られる本選じゃない。シオリ、スゴかったんだなあ」
やっと、やっとここまで来た。
やっと、アンタの視界に入る。
……その、視界に入るのが、音そのものではなくて、ただの大会の結果なのが残念だけど。
それでも、今はこれでいい。アタシを気に留めてくれれば、アタシの音を気にする機会も増えるだろう。アタシの音から、アンタの心を、離れられなくしてやるからな。
「へへ。褒めてくれてありがと。アンタもおめでとう、がんばろうね」
昏い心を隠して、アタシはそう言う。
きっと、これも本心だ。
「それにしても寒くなったなあ。……ため池で吹けるのも、もう1ヶ月ないだろうな」
空気を少し見渡すようにして、アキは諦念を含んだ、そんな風に言う。
フルートもトランペットも、冷えているとまともな音にならない。大げさに言えば。
そもそも、指がかじかんで、かゆくなって、痛くなって、吸い込む空気も肺に痛くって、冬の屋外は辛い。
肺が痛いだけなら、痛いだけ、で済むが、冷えた空気はのどにも悪い。のどを痛めたら終わりだと、師匠はいつも口酸っぱく言う。
吹く場所が限られているアキもアタシも、練習時間を確保するのが難しい季節が、すぐそこまで来ている。
……まあ、仮に、凍ったトランペットでも、コイツはものすごい音を出すんだろうけど。
周りがずいぶん明るい。今日の日の出は6時16分。もう、すぐだ。
〇
「マラソン、だるいなあ……」
「ね~~。休んじゃおっか」
何人かのカースト上位の女の子に囲まれたユミちゃんが、アタシから離れた所でそんなことを言っている。
今日の体育は5年生の3クラス合同。マラソン大会の練習。
桜山小学校は中学校と隣接していて、周辺は半円の広い歩道になっている。
校庭の外周を走って、校門から出て、それを、目標ポイントまで行って、帰ってくる。
本番も練習も、時間差で男女別。女子は男子の後。
〇
パン!
ピストルの音で、横に並んだ男子が一斉にスタートした。
100人ちょっとの学年だから、50人以上はいるだろうか。
せっかく広い校庭で、1秒を争う運動会の徒競走でもないのだから、大きな太鼓で、ドーン! とやればいいのに。
その方が絵として、壮大になるはずだ。アタシは発想記号のグランディオーソ=『壮大に』を理解しないけれど、遠くに大きな山を背負って、大勢の男子が走る姿はきっと『壮大』だと思う。
いや、案外それも『生き生きと』だろうか。元は違う単語なのに、『生き生きと』と、いくつも同じ邦訳があるのは理由があるのかもしれない。師匠は「イタリアに行って、感じなきゃ、言葉のほんとの意味は分からないわよ」なんて言う。
上流階級の発想はアタシとは違う。
そんなアタシの思考をよそに、スタートから全力でダッシュする男子が3人。名前は知らない。たぶんあっという間に集団に飲み込まれる。男子はそんなやつばかりでもないのだけど、目立つのはあんなのばかりだから、『男子は基本アホ』と言われてしまう。
男子が終わり、アタシたちもスタートする。
パン!
みんなが走り出す。
去年までのアタシはほぼ最下位グループだ。でも、今年は違うような気はする。
50人だとすれば中団、少し後ろくらいで周りに合わせてアタシは進む。
バテないように慎重に。アタシはこう見えて頭脳派だ。
校庭をぐるっと回って、校門から外周へ。外周を走る機会は毎年のマラソン大会くらいしかないから、慣れない道だ。
アスファルトに、雪で痛んで陥没した部分がいくつもある。気をつけないと、足を取られてからでは遅い。
折り返し地点。周りが息を切らして……、そもそも、だいぶ足が前に進まず、遅れていく子もいる。前の方からも落ちてきた子もいる。
そのまま進む。息は全然乱れない。少しずつ順位は上がる。
ゴールした時、アタシより先にいたのは20人。
50人ちょいくらい女子がいてこれなら、真ん中よりは上だ。
アタシは毎日走っていて、持久力には自信が出てきたけど、走るの自体は遅いからこんなものかもしれない。
〇
「シオリ、マラソン、なんで嫌いなの?」
帰り道、アキがそんなことを言ってくる。
男子は女子より先にゴールしたから、見ていたらしい。
そりゃ嫌いだろ。好きなやつがいるわけあるか。
小学生なめんなよ。
「え、疲れるじゃん」
「ふぅん。いつも真面目なのに珍しいね。手抜きするなんて」
「ん。サボってないよ。嫌いだけど」
「……。そう? 朝走ってるよりずっと遅かったけどな。距離だって短いのに」
「え」
「え」
……朝走ってるより短いの、あれ?
言われてみれば、朝は1時間くらい走ってるのに、マラソン大会の練習は、男子より後から走って、50分の授業中に終わっていた。
「マラソン大会って、何メートル?」
「5年生は1200メートルだったかな」
……アタシが朝走る桜山の校庭。その1周は大体400メートル弱のはず。
アタシはそれを毎朝10周以上は走っている。
時間と疲労だけで考えているから、数えてないけど、数えたら15周くらい?
「1200……? え、校庭たったの3周か4周でいいの?」
「そうだよ? だから、遅すぎて、『なんでサボってるのかなあ?』って」
……。
そういうことか。
「……知らなかったんだもん。慣れてないコースだし。周りのペースに合わせてたら、あんな感じ」
「あ~~……。……なるほどね。あの距離なら、いきなり全力で飛ばしても、シオリなら大丈夫だよ。明日朝、試しに同じコース走ってみようか? かっこいいとこ見せてよ」
「……うん」
見たことないけど、コイツ、マラソンもどうせ上位なんだろうな。
〇
11月22日(火)
マラソン大会当日。
「う~~。だるい~~。サボりたい~~」
ユミちゃんは相変わらずぶつぶつ言っている。
「サボっちゃえばいいじゃん」
ぼそっ、と。
他の子から隠れるように、ユミちゃんの背後に近づいたアタシはそんな風に言う。
他の子には聞こえないように。
「バカ! サボるとママに怒られんのよ!」
ユミちゃんは大声でアタシに向かってそう言った。
……せっかく、目立たないように言ってやったのに。
無視されるか、されないか、くらいの感じだったのに。
ユミちゃんは、アタシのいう事には、他より優先して反応するのかもしれない。
男子がずっと先にスタートした後で、アタシたちはずらっと一列に、横に並ぶ。
50人以上いても横になれる場所っていいな。そんなことを思う。
パン!
ピストルの音でアタシたちは走り出す。
アキが導いてくれたので、同じコースを、朝に5回くらいは走った。
アイツは「最初から全力でいいよ、周り見ないで自分のペースで」と毎度言う。
自分のペースで、アタシは最初から全力で。
周りに何人か人がいる。桜山には女の子のバスケットチームや、バレーボールのチームがある。顔も何人かは知っている。その子たちが多いみたいだ。
校庭をぐるっと回って、校門から外周へ。
前の方っていいな。人が少ないから邪魔されないし。そんなことを考えながら走る。
あ、スズちゃん。
人を挟んで、少し前にスズちゃんがいるのに気づく。スズちゃんは、スポーツとかはやっていないはずだけど、沢登りで見たように、持久力があるのは知っている。短距離走も速いし、運動がそもそも得意なんだろう。
スズちゃんについていけばいいか。そんな風に思う。
折り返す。人がどんどん消えていく。周りの人の息が荒い。
そのまま、周りにスズちゃんと、他に2人の子がいるまま、校門を抜け、4人のグループで校庭に戻ってきた。
他の人の息がゼイゼイと聞こえる。
目標の白いゴールテープが見える。
と。
ずどん!
そんな音すら聞こえそうな勢いで、スズちゃんが加速する。
周りの人は息を切らしているのに、スズちゃんは徒競走の時と同じような速さで、アタシと他の2人を引き離す。
アタシも頑張って足を前に出すけど、そもそもアタシの足は遅い。
スズちゃんがゴールテープを切るのが見える。
うわあ……すごいなあ。
感心しながら、他の2人と団子になって、アタシもゴールする。2位……なのかな? 3位か4位かもしれない。
はーっ、はーっと。
荒れた息を整えるように、腰に手を当て、深呼吸をしているスズちゃんに、アタシは話しかける。
「スズちゃん、速いね! すごいねえ!」
「ん……。シオリちゃん、……お疲れ様。シオリちゃんも速いね。体力すごいついたんだねえ。……全然、息切れてないじゃん」
「うん。そうみたい。でも、スズちゃんには勝てないよ。何かトレーニングしてるの?」
「う~~ん。何も。私、生まれつき、運動はできるから」
「そっか。いいなあ。……体、交換しようよ」
アタシは毎日走ってこれ。スズちゃんは何もしないでアタシより速い。
生まれ持ったもの、その差を感じる。
「だ~~め! それに、1200メートルは私が速かったけど、来年、6年生はもっと距離のびるから、シオリちゃんの方が勝つかもよ」
「まさかあ。それより、フルートやらない? きっとアタシより才能あると思うんだよね」
1人より2人の方が楽しいような気がする。スズちゃんがフルートをやってくれたら、多分、楽しい。
「え……。え~~……。シオリちゃん見てると大変そうだから、やらない」
「……その、大変も良いところなのに」
「はいはい。それより、表彰式、大丈夫なの? みんなの前で賞状もらうよ」
「えっ……。そうなんだ。何位かわからないけど、もらう順位だったら、マズいなあ」
「ん」
去年も、式なんてあったかなあ。
最後の方でゴールしてたし、疲れ果てて、気にしてなかったのかもしれない。
視線の集中を受けて、体が固まり、式の進行を妨げては困る。
「……先生に、相談してくる。あ、スズちゃん、優勝おめでとう」
言ってなかったなと。
忘れていたので最後に付け足す。
「うん、ありがとう!」
表彰式は、女子の3位の場所が空いたまま行われた。
誰も傷つけない優勝っていいな。アタシはこの日、そんなことを思った。
〇
第49話/99話 「走る アタシの速さで」 終




