第48話/99話 「崩れ落ちる その背」②
〇
ホールから人がだいぶ減った。
師匠はまだ泣いている。
もう号泣はしていないが、膝をついたまま、めそめそと。
さっき、師匠が持ってくれていた、アタシのリュックにハンカチが入っていたのを思い出し、それを差し出した。
「師匠、師匠、ハンカチです」と言って手渡したら、師匠は「ありがとう。優しいわね……」と言い、そのまま鼻をかんだ。
ハンカチではなく、近くにあった、アタシのドレスのスカートで。
さっき、一瞬「ぼろきれみたいなドレス」って言ってたし、区別がつかないのかもしれない。
……そりゃあ、師匠が朝見せてくれたみたいな高級品のドレスではないけれど、ぼろきれはひどい。ママの大事なドレスなのに。
だからアタシのドレスのスカートには、師匠の体液と崩れたお化粧がべったりとついている。
「あ、いたいた! チョウチョせんぱ~~い!」
ペンシルスカートにジャケットの、大人にしては少し小柄な、ショートカットの女の人が、大声を出しながら、こちらに走ってやってきた。
その人はこちらに走りよると、師匠に話しかけた。
「先輩、先輩」
「……あによ、今良いところなのに。……って、わっしぃ? 何やってんのよ、こんなとこで」
ゆっくりと顔をあげた師匠は、超不機嫌な声でそう言った。
今いいところって、結構時間たってるんだけどな……。心の中でそんなツッコミを入れる。
「うわ、……ブッサ。ホラー映画っスか。顔見ない方が誰だかわかるっスよ。いや、私、今日は大会のお手伝いっス」
師匠の顔は、化粧がドロドロに崩れて、汚い涙と鼻水と涎でぐちゃぐちゃになっている。
「ふうん。あんたらしいわね。昔と同じで。おエラいさんに媚び売って。どうせボランティアなんでしょ」
「悪かったっスね。先輩みたいな天才じゃないんで、生き方これしかないんスよ」
「あんたが言う天才って、良い意味じゃないでしょう」
言葉は険悪だが、別に悪い雰囲気ではない。
と、師匠はこちらを見て、
「大学の後輩の鷲足」
と紹介してくれた。
ども、と言われたので、ども、と返す。
「で、何よ。あたしのいい気分を邪魔してくれたからには、なんか用があるんでしょ? つまんない用事だったら殺すわよ」
いい気分って、師匠、泣いてただけじゃないですか。
口に出すとアタシまで殺されそうなので言わない。
師匠は、泣いてるのをからかわれると、本気で怒りそうなタイプだ。
「ああ、そうそう。先輩の生徒、どこにいるんスか?」
「ここにいるじゃないの」
師匠は、アタシを顎で示す。
「いや、こんな山猿みたいな子じゃなくて」
……山猿とはなんだ、山猿とは。
多少日焼けしているだけじゃないか。
ドレスだって着ているのに。汚れてるけど。アンタの先輩のせいで。
鷲足さんは、続ける。
「今日の大会の優勝者の方っスよ。初鳥さんっていう。表彰式の時間なのにこなくて。申し込みの指導者欄に先輩の名前があったから、知り合いの私が探しに来たんス」
……あの。
師匠は、立ち上がると、アタシの後ろに立ち、肩を支えてこう言った。
「だからこの子よ。初鳥シオリで間違いないんでしょ?」
「え、え……?」
「すみません、初鳥シオリはアタシです……」
なぜかアタシは謝ってしまう。
悪いことしたわけでもないんだけど。
「え、ほんとに??? ごめんなさい、裏方だったから、ステージ見てなくて……。でも……。え……? ええ……?」
鷲足さんは、少しバツの悪そうな顔をして、アタシと師匠を見比べる。
師匠は、アタシの肩を支える手に、少し力を入れると叫んだ。
「この子が、初鳥シオリ! 頑張り屋さんで! 今日の優勝者で! あたしの、たった1人の、自慢のバカ弟子! さっさとあんたも称えなさいよ!」
体液と崩れたお化粧でドロドロの顔で、吠えるように。
「お、おめでとうございます……。……あなた、いくつ?」
師匠の剣幕に押されたのか、困惑するようにアタシに訊く鷲足さん。
「11歳です」
「へえ~~。天才の弟子は、やっぱり天才なんスねえ……」
「何言ってんの。この子の才能なんて、あたしの100分の1よ。全部、この子の努力と根性がやったの」
師匠が、褒めてくれるので、なんだかうれしい。
やっぱり、泣いてる師匠よりも、こっちの強気なかっこいい師匠の方がいい。
顔とかはぐちゃぐちゃだけど。
「……先輩の100分の1でも才能が有ったら、それはやっぱり天才っスよ」
ぼそっと、鷲足さんは、そんな風に言った。
〇
表彰式。
経験は無いけれど、何をやるかは知っている。
鷲足さんに、フルートを吹いたステージへ、退場した舞台袖の方から案内される。
「もう他の二人は来てるから、並んでる真ん中へ、お願いします」
「はい」
応えて、暗い袖から、輝くステージへ出る。
照明は、相変わらず熱い。
アタシが出た舞台袖と反対側の方に、黒いドレスの背の高い女の子と、それよりは背の低いセーラー服の中学生が間をあけて立っている。
表彰台とかは無いらしい。
待たせて申し訳ないし、急ぎたいけれど、ステージは急ぐと滑る。
慎重に、歩いて、真ん中へ。
と、セーラー服の子と、目が合う。
待たせてごめんなさい、と思うが、声を出してはいけない雰囲気だった。アタシは、照れ隠しに、目が合ったまま、「へら……」と笑う。
と。
その子は、目を見開いて、なんだか少し、顔をゆがませた。唇を噛み締め、アタシから目を逸らす。顔をほんの少し逸らす。
そうか、今日の勝者はアタシだけ。表情をどう変えても、受け取り方次第で相手を傷つける。
アタシは極力表情を変えてはいけないことを学んだ。
えらそうな背広のオッサンたちが、何人かステージに上がってきた。
黒いドレスの女の子が、名前を呼ばれて前に出る。
「表彰状、第三位、――――」
日本語のはずなのだが、聞きなれない単語と、その並びで、何か呪文のように聞こえる言葉が続く。
おめでとう、と言われながら、くるっと回された賞状を受け取り、礼をして、折れないように半分丸めて片手に持って、回れ右して列に帰ってくる。
なるほど、ああやればいいんだな。
次のセーラー服の子が、呼ばれて前に出る。
「表彰状、第二位、「ああああああああああ!」
賞状の読み上げがされた瞬間、セーラー服の子は、慟哭して、その場に崩れ落ちた。
決して大きい声ではないけれど、その叫び声はアタシの脳裏に染みついて。
えらそうなオッサンたちと、係員の女の人が駆け寄って――。
なだめられて、なんとか立ち上がって、肩を、背中を震わせながら賞状を受け取ったその子は、こちらへ、床までぼたぼた落ちる涙と一緒に帰ってきた。
そこからは、よく覚えていない。
呼ばれて、賞状と楯を受け取ったはずだけど、気づけば列に戻っていた。
アタシの隣でしゃくりあげるセーラー服の子から一刻も早く逃げたかった記憶しかない。
入賞した3人で記念写真も撮ったはずだ。
アタシと同じくらい鍛えられた表情筋を持つはずの、セーラー服の子は、写真を撮る時もずっと泣いていた。
〇
「帰りましょうか」
「……はい。あ、荷物持ちます」
表彰式を終えたアタシを、廊下で師匠が出迎える。
師匠の顔は、ぐちゃぐちゃになったお化粧をすっかり落として、きれいになっていた。口紅だけをさしている。
すっぴんの師匠は、いつもよりなんだかすごく若く見える。
「今日はもう人前に出ないし、フルートも吹かないから、コンタクト、トイレで外しちゃおうか。誰もいないし。眼鏡、リュックに入ってるわよね」
「わかりました」
アタシのコンタクトはハードタイプ。ソフトタイプよりも目に負担がかかる。らしい。
〇
文化ホールの全面ガラスのきれいな入り口。
出たところで、師匠の足が止まる。
入り口近くのベンチが目に入る。
師匠が見ているのはそのベンチ。
昨年、師匠に、コンクールの重みを聞いた。
あの時は冷たい雨で。今日は晴れだけど、もう夕方だから、少し冷たい風が吹いている。
実際に参加したコンクールは、聞いていたとおりで……。
「少し、座っていきましょうか。飲み物、何がいい?」
「はい。……ココアでお願いします」
「あんた、自販機の飲み物、ココアしか知らないんじゃないでしょうね」
……師匠は、時々失礼だ。
アタシだって、ちゃんと何があるかくらいはいろいろ見ている。
自販機の上よりも、その下を覗き込んだ回数の方がはるかに多いけれど。
〇
「……あったかいですねえ」
「はいはい」
ココアの熱は、疲れた体に沁みる。
今日は午後、1回しか吹いていないのになんだか疲れた……。
師匠は少し、考えると、話し出す。
少し細めた目。
「あんた、絶対後でめんどくさそうだから、先に訊いておくわ」
「はい?」
「他人の人生、踏みつけた感想はどう?」
……。
細めた目の師匠と目が合う。
ああ、そうか。
アタシは、来るときの車の中で、師匠に言われた言葉を復唱する。
「……フルート始めて1年のアタシに、負けるような人生なら、それまでです」
師匠は、この時のために。
教えてくれたのは、きっと『模範解答』じゃない。きっと、無数にある中の、1つの正解で。多分、そう考えないと、アタシの弱い心がまた痛むから。無数の正解の中で、そう答えるのが一番、アタシの心を守ることになるから。
師匠は、スゴいけど、なんだか、ズルイ。ズルいと感じるその正体は分からないけど。
「そう。……あの子、これから、どうするかしらね」
あの子。表彰式で崩れ落ちた、セーラー服の子を指しているのだろう。
アタシは、また師匠の言葉を使う。
「今日の敗者は、明日も敗者じゃありません。挑戦者です」
教えられたとおりに。
「そ。それでいいわ。あんたは今日よくやった」
ふう、と師匠はため息をつき、アタシの目を見て、意地悪そうに微笑んで
「ちなみに、今日のあの子が次に……」
と言って、そこで言うのをやめた。
「? なんですか」
「いえ、良いわ。ごめんなさい」
師匠は、なんだか少しまずいことを言った、というように黙って、手元の缶を見つめる。
化粧を落とした師匠の顔は若く見えるけど、なんだか寂しげで。
――アタシは、励ましたくなってしまう。
師匠のおかげで強くなったアタシを、見せてやりたくなってしまう。
「師匠」
「ん」
思考を全力で組み立てたアタシは、師匠に呼びかけ、師匠が言いたかったことを想像し、宣言する。
「次にあの人が、アタシと同じ大会に出ても、アタシは全力で吹きます。そうするべきで、そうできます。それしかできません。アキに勝つまで、……何かを見せられる音を出せるようになるまで、アタシはずっと負け犬で……挑戦者です」
師匠は、アタシの言葉に驚いたように目を見開くと、少し、鼻でふっと笑った。
「ココアをそっちに置きなさい」
「? はい」
言われたとおりに、ココアの缶を師匠の反対側のベンチに置く。
――師匠が、アタシを抱き寄せる。
「優勝、おめでとう」
崩れ落ちる姿と、抱擁。
――それが、アタシの初めてのコンクール。
〇
第48話/99話 「崩れ落ちる その背」 終




