第48話/99話 「崩れ落ちる その背」①
〇
師匠に指定された長さどおりに、最後のフェルマータを吹き切った。
ほんのわずかな永遠の瞬間、アタシの息が、指が止まる。
静かなアタシの世界の中に、アタシの意識が帰ってくる。
照明の熱を感じる。客席の息遣いを感じる。舞台袖の係員か、次の奏者の視線を感じる。
――アタシの世界が終わる。
お辞儀をする。そういえば、終わった後の練習はしてなかった。そんなことを考える。
さあっ、と。いっぱいの拍手が来た。
穏やかで凪いだ海の上を、沖から来る風のような。
拍手に送られるように、アタシは去る。
奏者はみんなライバルで、ここにきているのはそのライバルと関係者ばかりのはず。
なのに、それでもそれに拍手をするのは、きっと互いのここまで来た、積み上げた努力を知るからだ。一歩の重さを知るからだ。ほんの少し、を知るからだ。
努力という言葉は、負けた時の言い訳みたいに感じ、少し前は好きではなかったが、今では誇りにも思う。
〇
退場。
誘導に従い、暗い舞台袖からも抜ける。
とたんに明るくなる視界。
文化ホールの廊下は、照明が強くはなく、本来あまり明るくないけれど、暗い袖から出てきたので、相対的に明るく見える。
出た近くに、師匠がこちらを向いて待っていた。
下唇を少し噛んで、鍛え抜かれた表情筋で、口角を上げた笑顔で。
アタシは駆け寄る。少し走りづらい靴で。
「師匠!」
師匠は、何も言わずに、フルートを握るアタシの両肩に手を置いた。
それ、今じゃないです。
「……どうでしたか?」
少しの期待と、少しの不安、いっぱいの達成感を胸にアタシは尋ねる。
「完璧よ。これで負けたら審査員が悪いわ」
師匠は、少し手を震わせてそう言った。
〇
「少し、座りましょうか」
会場の、客席側に入る扉の前。
奏者と奏者の入れ替えのタイミングでしか扉は開けられない。
「いいかしら?」
係員を見た師匠が、入る意思を師匠が指と言葉で示す。
係員が、タイミングを見計らって開けてくれる。
無線機なんかを持っているんだろうか。
照明が落とされて暗い客席。躓かないように段差を下りる。後ろの方のブロック、前の方の席に、師匠に続いて座る。
座って前方を見れば、アタシのいる暗い客席と対比されるように、白い光に照らされたステージは輝いて見える。
次の奏者がステージ上に歩いてくる。
時間と、順番的には、最後か、その前か。きっとさっきまでのアタシも、あんな感じだったろう。
舞台へ上がった、青いドレス姿の女の子。構えた笛から奏でられる音が会場を満たす。
少し離れた位置にいるはずなのに、指向性のないフルートの音なのに。
真っ直ぐここまで届くと感じるそれは、アタシの笛の音と、きっと源を同じにするものだ。
奏者それぞれが持ち寄った、これまでの歩みの証。
アタシは充足感とともにそれを聴いた。
〇
最後の奏者の演奏が終わり、退場する。
『――以上をもちまして、全日本楽器コンクール2次予選、フルートの部を終了いたします。結果発表は30分後、ホールの掲示板に貼り出されます。奏者のみなさん、お疲れさまでした』
会場に流れるアナウンス。客席が少し明るくなる。
客席にいた人たちがぞろぞろと退場していく。
結果発表まで、行くところなんかないはずなのに。もう少し待ってればいいんじゃないか。
「トイレとか、いく?」
「大丈夫です」
ステージを見たまま座っているアタシたち。その照明はついたままだ。
他の人が歩き去る喧騒のなか、師匠とアタシの間に、少しの沈黙が流れる。
「……本当に、1年、長かったでしょう……」
しみじみと。
ぽつぽつと師匠は語る。
「……子供って、今日やりたいことと明日やりたいことが、ころころ変わるもんだと思ってたわ。目標に向かって進む子なんて現実にはいないって。『信念を持った子供なんて気味が悪い』って、あたしの好きなアニメで言ってた。……あたしも、そのとおりだと思う」
「アタシ、信念なんかありませんよ」
なんのアニメか知らないけれど。
師匠と時々、アニメや漫画の話もするが、師匠は基本的に趣味が悪い。ひねくれた創作ばかり好きだと言っている。どうせろくなアニメじゃない。
アタシは単純に、ヒーローが悪いやつをぶっとばす話が好きだ。
同級生は、少し難しい、正義とは何か、とか、悪いやつにも過去がある、みたいな話を好きな子が多い。
でもアタシの好きなのは、パンの顔したヒーローが、悪いやつをパンチ一発でぶっとばして、腹を空かした子供に、替えの利く自分の頭をあげる。
そんなどこまでも強い話。
めんどくさいのは、現実だけで沢山だ。
師匠はつぶやく。
「……そうかなあ」
「そうですよ、大体、何ですか気持ち悪いって。師匠の、かわいい弟子ががんばってきたんです。よくやった、くらい言えないんですか」
さっき言っていた気もするけど。
師匠は、ふっ、と鼻で笑うとアタシの頭を抱き寄せた。
「……ふん。よくやった、なんて言わないわよ。あんたならできて当然。かわいくもないし。こまっしゃくれたことばっかり言って」
わしゃわしゃ、と。
そのまま師匠は、アタシの頭を撫でる。
短いくせっ毛がぴょんぴょんはねた、頭を撫でる。
「……よくわかんないけど、悪口ですね?」
ちょっとだけ、イラっとした。
師匠は、ふふふと笑って続ける。
「……演奏は、どれだけ良くても、他者との相対評価だからね」
「はい」
「努力は他人もしてる、わかるわね」
「はい」
今日聞いた音、最後の方の少ししか聞けなかったけれど、研鑽の証が形になって見えるようだった。
「どこの生徒も努力してる。どこの先生も、生徒を伸ばしたいと思ってる」
……。
アタシは言う。少しの反発を込めて。
「でも、よその先生は神様じゃありません。アタシの師匠は神様です」
「……。どこの生徒も、先生を神様だと思ってるわよ……」
「そうなんですか?」
アタシは、他のフルートの先生を知らない。
他のフルート教室も知らない。
少しだけ通ったピアノの先生は、厳しくて、嫌なことばっかり言うからやめてしまった。そのピアノの先生だって、自分のことを神様だとは言わなかった。
「そういうもんなのよ。だから、アタシが言いたいのは、……今日負けても、それだけ。紙一重の差。審査員の好みとか、会場のたまたまの湿度とか温度とか。負けても、あんたの、自分の努力が、この1年が無駄になったなんて思ってほしくないってこと。あるいは……努力が足りなかった、なんて思ってほしくないってこと」
「師匠!」
アタシの声は少し大きくなる。反発とともに。
おかしいじゃないか。これではまるで。
師匠はアタシを遮って続ける。
「だから、覚えておいてね。朝も言ったとおり、今日の敗者は、明日も敗者じゃない。敗者じゃなくて、挑戦者。もし結果が悪くても、何度でも上を目指すわよ」
「師匠!」
アタシは言う。叫ぶように。師匠を呼ぶ。もう一度。人がほとんどいなくなった客席で。
それ以上、言わないで欲しい。
そうじゃない。これではまるで、言い訳だ。
アタシは師匠を信じている。
信じているから、そんな負ける前提の言葉は聞きたくない。
アタシは続ける。
「やめてください、師匠。そんな……アタシの勝利を信じてないんですか。自分が育てた、弟子の勝利を信じてないんですか」
「……信じてるわよ。……一応、言っておくけど、もし1位でも、結果が出た、その場で絶対喜んじゃ駄目よ。敗者しかそこにはいないんだから。……それと、もしダメなら、全力で悲しんでいいから。折れるまで泣いてもいい。それだけのことを、あんたはしてきた。もし折れても、あたしが絶対立て直す。立ち直るまで立て直す」
「ありがとうございます。……でも、他の人とアタシは違います。アタシの師匠は神様です。……他の人の先生が神様でも、アタシの師匠の方が神様です」
……師匠は1つ息をつき、ふう~~と大きく吐き出した。
……。
…………。
師匠は長い事、何か考え込んで。
ふう、ともう1つ息をはくと。
立ち上がり、言った。
「努力の結果を見に行きましょうか」
〇
師匠についてホールを出る。
「他の人の邪魔になるから、あたしの後ろにいなさい」
師匠がそんなことを言う。
去年は並んで歩いたじゃないか。
アタシは少し反発する。行動には出さないけど。
文化センターの大きな入り口の前、少し広い空間。
掲示物を貼り出す壁。
10人ずつ、上から演奏順に、番号とともに、個人名が横書きされた大きな紙。
向かって左から「1から10」「11から20」「21から30」「31から40」
去年見たものと全く同じ。個人名の横に『金』『銀』……、あとは『代』『1』『2』『3』が書いてあるはずだ。
『1』『2』『3』は順位。順位が付かない人には『金』『銀』のどちらかが書いてある。金賞と銀賞の意味らしい。
アタシの番号は36。一番右の紙、真ん中くらいに書いてあるはず。
ホールには、もう悲しみの輪が出来始めていた。
「わぷっ」
よそ見をしたアタシの顔が、途中で師匠の背中にぶつかる。
師匠は立ち止まったまま、少し足元を見て、右手で胸を押さえる。
軽く、ふう、と深呼吸をして、師匠は顔を上げて結果発表の紙の前へ歩き出した。
……今から見るのは、アタシの結果であって、師匠の結果じゃないですよ。
そんなことを思いながらついていく。師匠の顔は見えない。
悲しみの涙にくれる人込みをかき分け、
大きな結果発表の紙の前で、師匠は立ち止まる。
アタシに結果を見せないかのように。胸を張って。
少しの間、師匠は止まる。
「……師匠?」
アタシの呼びかけに答えるように。
「……見なさい」
振り返った師匠は、アタシの肩を掴むと、体を入れ替えるように前に出した。
わ、と。
動きづらい靴のまま、師匠に押されたアタシは少しバランスを崩し、下を向く。
しっかり立って、顔を上げた先。掲示板に貼られた大きな紙。
他の参加者の名前の真ん中近くに「36 初鳥シオリ 課題曲Ⅳ」
アタシの名前のその横に、――『1』『代』の文字。
2次予選1位。たった1人の県代表。
アタシの胸の中に湧き上がる歓喜。
両肩に感じる師匠の手。
自然、握り込まれるアタシの両手。
ほらな! みたか! アタシの師匠は最高なんだ! アタシの師匠は絶対なんだ!
頬がほころぶのを感じる。師匠が何度も授けてくれたレッスン。その1つ1つが、胸の奥に、走馬灯のようによみがえる。
笑顔のまま、アタシは。
「し……」
心の奥に湧いた言葉、「師匠、やりました! みてください!」そのままに、アタシの神様に、アタシの絶対に、振り返ろうとして、アタシは思い出す。
師匠は、「喜んじゃダメ」と言っていた。そうだ、この場にいる、結果で嘆く他の子たちは、みんな、アタシより下の成績で。
おそらくは、アタシが勝者になったことで生まれた敗者。
勝者のやるべきことは、敗者を傷つけることではない。
アタシに出来ることは、無言で後ろを振り返って、無言で師匠の称賛の視線を浴びること。
考えたアタシは師匠の言ったとおりに、全力で笑顔を引っ込めて。
後ろを振り返ろうとして。
――それができないことに気付く。
両肩にあてられた手が、痛いくらいにギリギリとアタシを締め付ける。
「師匠?」
痛いくらいに、ではなく、普通に痛い。
「師匠?」
ぽた、と。
ぼたぼたぼた、と。
アタシのドレスの首筋、開いた部分に水滴が落ちてくる。
「ううううぅぅ……うぇえええええ」
なんだか汚い声が、少し上から聞こえる。
「師匠、痛い、痛いです!」
思わず、アタシは叫ぶ。
痛いから。
「うええ……、あ、ごめ、ごめんなさい」
アタシから、ぱ、と手を離した師匠。
振り向いたアタシの目に見えたのは、普段の、美人の顔をぐしゃぐしゃに、体液を垂れ流して、人の顔には実はこんなに水があるんだ、と思わせるほどの、幾筋もの涙を、ナイアガラの滝のような、筋にならないほどの大量の涙を垂れ流す顔。
え、ええ……。
困惑するアタシを、その顔は、ぐい、ともう一度、振り返らせて、掲示板に向かせる。
師匠は、そのまま、今度は両腕で、アタシを背後から抱きしめる。
アタシの体を折ろうとするかのように。
「見なさい、見なさい、見なさいよぉ……」
「見てます、見てます」
「見えてる? 見えてる?……ううええ……えええええ……」
師匠は泣いている。
泣き続けている。
アタシの頭や、耳や、ドレスの開いた首筋には、師匠の体液がぼたぼたぼたと落ち続けている。
「あんたがやったのよ……ううっ、えええええ……あたしのあんたがやったのよ……」
「師匠、あの、痛いです、離してください」
「……こんな小さい体で、汗臭いだけの汚い体で……、……こんな細い体で、……ぼろきれみたいなドレスで……、ううっ。うっ、ぐずっ、うえっ、うえええええ……、あたしの、あたしの弟子がやったのよぉ……」
アタシの抗議を、師匠は全然聞いていない。
そもそも、アタシに喜ぶなといっておきながら、この人、すっごい喜んでる!
うれしいのはうれしい。結果が出たこともそうだが、師匠が喜んでくれるなら、アタシもうれしい。しかし、どう反応して良いか分からない。
自分より混乱する人間を見ると、なんだか冷静になるんだな。
そんなことを思う。それにしても。
「師匠、師匠! 痛いです! いーたーいーでーすー!!!」
身をよじって、大声をあげると、師匠はようやく、もう一度アタシから離れた。
「もう、やめてくださいよ」
「だって、だって……」
アタシの顔を見ると、師匠は、もう立っていられないと言うように、膝からその場に崩れ落ちると。
祈りをささげるどっかの原住民みたいに、頭を床へ、叩きつけるように下ろして、アタシの足に。アタシの、脚ではなく足に。
すがりつくように、両手で、それを持つ。
「ありがとう……。ありがとう、ありがとう、……うええぇぇぇぇぇ……あぁぁああああ」
……なんなんだ、この人。
お礼を言うなら、師匠に勝たせてもらったアタシなのに。
いい大人が、まるで幼児のように、みっともなく泣く光景を、アタシは初めて見た。
師匠はそのあと、アタシの足に縋りついたまま泣いたり、立ち上がろうとして上半身を起こしたところで、そのまま膝を床につけたまま、天を向いて、再度泣いたりした。
敗者の、悲しみにくれる涙の輪の真ん中で、勝者のアタシを産んだ人は、勝っても喜ぶなと言っておきながら、敗者の誰よりも大声で泣き続けた。
いつまでも、いつまでも、大声で泣き続けた。
〇




