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第47話/99話 「置く 世界の真ん中に」②

 〇


 最初の控室から、演奏のために人がどんどん消えていく。

 残される人達の口数も減る。

 師匠は途中で「静かになって結構ね」と言っていた。

「36番の初鳥さ~ん」

 開いたドアから、そんな呼びかけをされる。

 アタシの番だ。

 

 2番目の控室に移動する。

 音を出してもいいらしい。

 

「時間がないわ。最初の音階噛ませるロングトーンを1回。課題曲の最初の5小節を2回、それで行きましょう。後は体がやってくれる」

 

 師匠がそう言い、アタシはうなずく。

 このセリフは、師匠が前もって用意して――、同じセリフを言ったうえで、移動と他人の演奏の時間から導き出される控室の時間を、そのセリフのとおりに準備する。

 そんなやり取りを何十回も繰り返したものだ。

 このセリフを聞いて、アタシは安堵(あんど)する。

「それで行きましょう」の下りは時々、苦笑いしそうになる。

 それで行くもクソも無い。アタシと師匠が準備した、いや、師匠が考え、アタシのために準備した、本番前の時間の過ごし方は『これ』しかない。


 基礎の基礎、音階(スケール)を噛ませたロングトーンを1回。

 つまりは、低音、中音、高音それぞれで1回ずつのロングトーン。芯を作るように。

 その後に息の芯を保ったまま、最低音から最高音へ。

 息の速さは変えても、支えは変えず。それだけだ。

 

 次に、課題曲の最初の5小節を2回。練習そのままに。


 きっと、本番直前で言われても混乱するだけな、アタシの不器用さを補うためのものだろう。臨機応変(りんきおうへん)がアタシはできない。

 この準備のやり取りだけで、アタシは師匠の愛を感じる。

 いつもどおりに。何十回も繰り返した、それどおりに。

 アタシは、本番前のウォームアップを終えた。


 〇


 係の人が控室のドアを開く。

 さ、行こう。

 フルート1本持って、立ち上がる。


 少しだけ師匠に目をやる。

 フルート以外のアタシの荷物を全部持った師匠が

 厳しい真剣な表情で、アタシを見て、うなずく。

 勝ちを確信(かくしん)しているように。

 それでいい。行ってきます。

 言葉には出さない。

 戻ったら、『ああいうときは笑顔で送ってくださいよ』とでも言っておこう。

 きっと、師匠と同じように、アタシの顔も険しい。


 〇


 舞台袖は静かだ。

 今吹いている、前の演奏者の音だけが届く。

 少しだけ、動く係員の人。衣擦(きぬず)れの音まで聞こえるようだ。

 静かにしてろ。この後、アタシが吹くんだぞ。師匠の弟子が吹くんだぞ。


 ほんの少しだけ、一瞬、胸に、前もってこれを体験させてくれた、音楽クラブへの感謝が湧く。

 乾いた空気。

 これを産む、照明の温度が遠目で見るよりずっと熱いことも知っている。

 不安は無い。

 いつもどおり、練習通り、研鑽(けんさん)の結果を、練磨(れんま)の成果を、鍛錬(たんれん)結実(けつじつ)を聴かせるだけ。


 師匠はどこにいるのだろう、とふと思う。

 まあ、いいか。

 どこで見ようが、どこで聴こうが、アタシを一番見ていてくれるのは師匠だ。


 〇


 拍手が、聞こえる。前の奏者が終わった合図にもなるそれ。

 係員の手によって、開けられた袖幕。

 それに従い、流れるように中央へ。

 何十回も、師匠と、歩くトレーニングをした。

 ゴン、ゴンとアタシの足音が響く。うるさいことは知っている。

 照明の熱さ。これだってアタシは知っている。

 アタシの世界に入ってくるな、と反発しても、定位置に着くまでは仕方ない。

 曲を吹き始めれば、すべてが消える。もうすぐだ。


 ブーーッ

 会場に、これから楽器を演奏する雰囲気には似つかわしくない、無機質なブザーの音が流れ、アナウンスが続く。

 

『36番 初鳥シオリさん 演奏は課題曲4番です』


 〇

 

 アタシは熱を銀にうつす。指が銀の上を()いまわり――。

 ――アタシの世界が見えてくる。

 

 フルートの音に指向性(しこうせい)は無い。

 それでも師匠は、アタシの音はまっすぐで、良い意味で硬いとほめてくれる。

 ひねくれたアタシの音なのに。

 岩に金具で証を刻み付けるかのような、そんな音だと。


 アタシは、フルートを吹くとき、曲の解釈(かいしゃく)をしたことがない。

 音楽記号の中で、発想記号(はっそうきごう)と速度記号の一部について、理解が極めて苦手なアタシは、師匠が指示したとおりにしか、それを吹けない。

 

 音楽記号は多すぎる。少し正確に言えば、元々曖昧(あいまい)な物しかないくせに、曖昧なまま、数だけ無駄に増やしたものとなる。


 変化や相対速度も含めれば、速度記号で、アタシが理解できないものは20を超える。そこから先は数えていない。

 最初からテンポを数字で書いておけ。オーケストラなんかのための楽譜ばかりだから、そうもいかないのだろうが。

 アタシはメトロノーム記号という存在を知った時、大喜びしたが、それを使う作曲家は極めて少ない。


 アタシの特に苦手な発想記号は、知っているだけで30以上ある。

 なぜ知っているだけかと言えば、そこで数えるのをやめたから。

 何が『壮大に』だ、何が『決然けつぜんと』だ。

 なんで『生き生きと』が何種類もある。

 『気楽に』と『軽く』の何が違う。

 アタシがかろうじて、自分の力で理解できるのは『ソステヌート』=音を保持して、だけだ。


 どの音楽記号も、聴衆(ちょうしゅう)にそれをイメージさせるような音を出せ、というのが作曲家の意思が反映されたものである。つまり、奏者に求められるものは感情ではない。感情を込めたように聴かせられる表現力だ。

 アタシは何か感情をこめてフルートを吹いたことがない。アキのような、感受性(かんじゅせい)も豊かな天才ならば、楽譜に書いてあるとおりの気分になって、それを楽器の音に乗せられるのかもしれないが、凡人たるアタシにそれは無理だ。

 つまり、アタシの音に何かの感情が見えたとすれば、それは技術の結果であって、本物の感情ではない。


 師匠は、「表現に正解は無いが、技術に正解はある」という。

 それでも、アタシにとって、師匠の指示した表現が、指示された音量、音質、音階、音拍、音圧に、唯一絶対の正解だ。


 フルートは別に好きじゃない。

 ただ、吹いていると、練習中であっても、頭がクリアになる。何も考えなくていい。

 日ごろから悩みばかりで、雑念(ざつねん)で頭がいっぱいのアタシにとって、これは救いだとも感じられる。

 練習中であっても、周りが消えて、思考が消えて、音が消えて、アタシがフルートになって、透明な、何もない世界にいるような。そんな錯覚(さっかく)を覚えることもある。

 アタシがフルートで音を出しているはずなのに、音が消えてというのもおかしいが。頑張って説明するならば、アタシの音と、レッスン中であれば、師匠の声や、ぺしぺしとアタシを叩く指導棒だけの世界。


 つまりアタシのフルートは、それ以外何もない世界に、師匠に教わった技術で、師匠の指導通りの音を刻み付ける、ただそれだけの道具だ。


 全日本楽器コンクール2次予選、フルートの部。


 この日、アタシが行ったのは。


 現実にはきっといるであろう客席の人間や係員、他の奏者がいない世界。

 ステージの、熱も重さも響きも速さも置き去りにした、透明でまっさら、音も光も闇もアタシも、何もない世界。

 そんな世界の真ん中に。


 師匠に楽譜を渡されたその日から、数えれば、通しで吹いた回数だけで2000回を軽く超える、アタシの汗と血で刻み付けた努力の結晶。

『課題曲Ⅳ モーツァルトの協奏曲(きょうそうきょく)ニ長調』。

 

 それを、力の限りに置いてきた。


 〇


 第47話/99話 「置く 世界の真ん中に」 終

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