第47話/99話 「置く 世界の真ん中に」①
〇
11月13日(日)
「着替えたら、行くわよ。玄関で待ってなさい」
「はい」
全日本楽器コンクール、略して『全楽』2次予選、あるいは県予選、の当日。
天気は秋晴れ。フルートを吹くならこんな日だ。
アタシの演奏順は36番。
今日フルートを評価される子は、午前に25人、午後に15人。
アタシの出番は午後の、後ろから数えると5番目。
午前から行くのは暇だな、と思っていたら午後からで良いらしい。師匠に、「開会式、出たい?」と意地悪そうに訊かれたが、断っておいた。知ってるくせに。
午前はいつもどおり、基礎トレと課題曲。
昼ご飯はママのおにぎり。師匠はいつもの、コンビニのご飯。
何も変わらないアタシの日曜日の午前。
師匠が着替えのために自室に行ってしまったので、台所――師匠が言う所のダイニング――で、アタシも着替える。
アタシは、ママのおさがりのドレスに袖を通す。
脚はオーバーニーソ。スカートが長いとタイツっぽく見えるが、タイツと違って股を締め付けてこないので非常に気に入っている。
靴はバンドを金具で留める、かわいい黒い靴。師匠がどこからか出してきたそれは、履くと、『良い所の子』になったみたいで、少しうれしくなる。会場についてからだから、まだ履かないけれど。
「さ、いくわよぉ~~!」
玄関で少し待っていると、声を張り上げて師匠がこちらへやってきた。
その格好に、アタシは息を飲む。
「……ふわぁ……」
緑色のドレス。車の色の系統と同じだから、きっと師匠の好きな色だろう。あっちは、よく壊れてるからあんまり駐車場にないけれど。
単純な緑ではなくて、夜露に濡れた後、朝日に輝く、アジサイの葉っぱみたいな。
分厚いのに、軽そうに見える素材。布のようで、金属のような。
光沢がないのに、見るからになめらかなのが分かる高級そうな生地。それに時折、ほんの小さな、近くに寄らないと分からない、……いや、寄ってもわからない、でも動くと少しだけ光る、輝く何かが入っている。
上半身はスタイルの良い師匠の体に、吸い付くように。
スカートは、波のように揺れるフリルが幾重にも重ねてあって、――なのに膨らみ過ぎず、存在感はあるのに動きやすそうで。
見たことが無くても、それに縁が無くても分かる。
高級品だ。
上の方をよく見れば、いつもは付けない髪飾りも、玄関の上の窓から差し込む光にキラキラと輝いて。嫌味じゃなく、光りすぎない程度に輝いて。
「し、師匠! すごいです! とってもすごいです! どこかの王女様みたいです!」
アタシは興奮して、思わず、幼児みたいな語彙の感想を漏らしてしまう。
これが、アタシの師匠。アタシの神様。アタシの最高。アタシの絶対。
この人が教えてくれたのに、アタシが負けるわけがない。
師匠はアタシの前にまっすぐ立って。
少し下に目をやると、……アタシを見て、目が合って、真剣な目で、唇を噛んで。
……近づくと、アタシを、そのまま、抱きしめた。
「……師匠?」
師匠は応えない。
師匠が膝を少し曲げて、顔と顔がすれ違うような形になっているので、師匠の表情は見えない。
少しの間、王女様かお姫様みたいな師匠に抱かれて、その花のような香水の匂いにアタシは包まれる。
――と、師匠はアタシから離れると。
「ちょっと、やること思い出したわ。少し待ってなさい」
と言い、自室の方へ引っ込んでいった。
戻ってきた師匠は、いつもの、パンツスタイルのスーツに、Yシャツ、ノースリーブのベスト。つまりは、いつもの姿になっていて。
アタシはがっかりする。
「え……。師匠、なんで着替えちゃうんですか。アタシ、あの格好がいいです」
「……ドレスじゃ車は運転しづらいわ。行くわよ、バカ弟子」
〇
「そういえば、教えていなかったわね」
「何をですか?」
行きの車の中、師匠がアタシに軽い調子で話しかける。
ふん、と挑発的に笑う様に。
「1年前、あんたに訊かれた、コンクールで勝つべきなのは『人生がかかってるような人』か、って話」
「ああ」
アタシは思い出す。1年前の光景を。
そこに立つ人たちの、努力の価値を示すような、きらびやかなステージ。
その後に見た、その努力で掴もうとしていた夢が、淡くも崩れる、結果発表のホール。
その場にいる、ほぼ全員が敗者で、悲しみしかない光景。
あの時に見た光景、その沈痛な雰囲気、思い出すだけで胸が苦しくなる――。
「あんた、馬鹿だから答えを最初に教えておくわ。『フルートを始めて1年の小学生に負けるレベルの人間は所詮そこまで』。……つまり、あたしは、あんたに勝ちなさいって言ってる」
「……はい。」
答えているような、答えになっていないような。
それでも、アタシのやることは全力を出すこと、そういうことだ。
「仮に、今日運良くここを突破しても、そのレベルじゃ、早晩壁にぶつかってそれで終わりよ」
「わかりました。とにかく、いつもどおり、集中して吹きます」
少し、師匠は上を向いて考える。
運転しているんだからちゃんと前を見て欲しい。
「ああ、それと」
「なんですか」
「もし、今日負けても、生き残るやつは、何が何でもそれにしがみついて生き残るわ。どんな環境でも、境遇でも。今日の敗者は、明日も敗者じゃない。よく覚えておきなさい」
「今日の敗者は、明日も敗者じゃない」
「そう。何度でも立ち上がって上を目指すの。これはあんたにも言えるわよ」
「アタシですか?」
「思い出して。あんたの目標は何?」
今度は、アタシが少し、考える。
懸命に上を目指すと決めた日。師匠の前で泣いた日。
師匠に引きずり出されたあの日の本音。
「……アキに勝つこと。アキに認めさせること。魔法使いになって、魔法使いの先輩をぶちのめすこと。……何かを見せる音を目指すこと」
『素敵な音にしましょうね』
師匠の言葉が、脳裏に鮮やかによみがえる。
「そ。今日、ここで負けても、最終目標は変わらない」
師匠はこともなげにそう言う。
そうだ、アタシは何度負けても、それを目指す。
でも。
「師匠は、アタシが負けると思ってるんですか?」
「……1年前に言ったでしょ。答えは『1番になれる実力になったら教える』って」
〇
去年と同じ文化センター。
天気は……去年は土砂降りで、今日は快晴。
去年は暗くて、奥行きががよく分からなかったけれど、大きい。明るい中でもその大きな印象は変わらなかった。
でも、『大きい』、ただそれだけだ。アタシが突然下手になるわけでも、突然上手になるわけでも、フルートが割れたりするわけでもない。
積み上げたものを見せるだけ。いや、違うか。聴かせるだけ。
「ふふっ」
心の中で、感想に入れたセルフツッコミに、少し笑いが漏れる。
「うわあ……」
「なんですか」
師匠が、なんだか嫌悪感を含んだ表情でこっちを見ている。
「いや、なんか笑ってるから気持ち悪いなって。悪役みたいよあんた」
「そ、そうですか」
「ま、いいわ。勝てば主人公よ。行きましょ」
受付を済ませて控室へ。
会場は違うけれど、楽器クラブで参加したアンサンブルコンテストと、同じような楽屋だった。
出番の順が来る少し前になったら、もう1つの控室へ。
音を出すのはその2番目の控室。
そのすぐ後、出番直前に舞台袖へ。
どっちも、係の人が呼びに来てくれるらしい。
控室の中は、まあざわざわと。
ドレス姿の女の子、セーラー服の女の子、学ランを着た男の子。
それに付き添う保護者に指導者。
午後の出番は15人で、その先生が必ずいるから、最低30人。良く見れば、複数の大人が付いている子もいるから……40人くらいか。
みんな、そこまで大きな声で話しているわけではないが、これだけいればそりゃ多少はうるさくもなる。
「やかましいわね。あんた、黙らせなさいよ」
「ちょ、師匠、何言ってるんですか」
「あたしならロングトーン一発で黙らせるわよ」
「……。ここはまだ、音出し禁止です」
突然の師匠の無茶ブリにも、冷静に返す。
この人は、冗談で言っているのか分からない時もある。
「ふん。後で、あんたの音で全員叩きのめしなさい」
……師匠のこれはたぶん本気だ。
アタシと師匠は、人込みを避け、大勢の参加者が見える隅の一角に、壁を背にする。師匠が、椅子を2つ持ってきてくれたので遠慮なく座る。
硬い表情の子供――参加者が多い。
あ。
「ねえ師匠」
「ん~~?」
「あれ、やってくれません?」
アタシと師匠の目線の先には、深く息をする子供。その子供――参加者の硬さをほぐすかのように、その子の両肩に手を置く指導者。
別に不安があるわけではないけど、アタシも、師匠から安心をもらいたかった。
ところが、師匠は。
宙を見て、ほんの少し、考えるそぶりを見せたあと。
「……あんた、あんなの要らないでしょ。さっきハグしたから、あれで終わり」
そんなことを言い出す。
甘えさせてくれてもいいのに。
「え~~。やってくれないと勝てないなあ」
師匠は、もう一度少し沈黙して。
ゆっくりと口を開いた。
「あんた、この1週間、課題曲の運指、何回間違えた? ああ、疲労で動かなかった分は抜いて良いわよ」
「音ミスった記憶がないから、多分0回です」
「アンブシュア、何回間違えた?」
「音ミスった記憶がないから、多分0回です」
「ビブラート、何回間違えた?」
「師匠の細かさを出せないから、結構……数えきれないくらいミスってます。……でもベストは尽くしてます」
励ましてくれるのかと途中までは思ったのに、なんでアタシと自分の差が一番出る部分を言うのかなあ……。
アタシはふと、そんな風に不満を感じる。
師匠は、無表情で続ける。
「1年前を思い出しなさい。1週間で、運指何回間違えた?」
「数えきれません……」
「アンブシュア、何回間違えた?」
「数えきれません……」
淡々、と。
まるでチェックリストを確認するように師匠は言う。
「ビブラート、何回間違えた?」
「あ、それは0です。1年前のアタシ、ビブラートのかけ方知りません!」
仕方ないだろ、独学では、教則本何回見ても上手くいかなかったんだから。
こんなに重要なものだとも知らなかったし。
アタシは心の中で言い訳する。
師匠はにやりと笑って、続けた。
「今日、課題曲をアンタより練習してきたやつは?」
「う~~ん……。わかりません。みんな頑張ってると思います」
ずるっ、と。
アタシの答えに、師匠は大げさにずっこけた。
わざとらしく。
「あんたねえ、そこは『0です』って答えるところでしょうが」
あ、なるほど。ネタ振りを理解していなかった。
それでも、師匠からは。
--本気でそう思っている。そして、アタシにもそう思っていて欲しい。
そんな熱を感じる
「最後に訊くわ。負ける要素は?」
「0です」
「よし」
多分、師匠は、他人と同じことをするのが嫌なのかもしれない。
視界にそれが無かったら、アタシの肩に手を置いてくれたのかな。
肩に置かれない手に信頼を感じる。
きっと、師匠はそれでいいと判断していて。
師匠がそれでいいと判断したなら、それでいいのがアタシだ。
〇




