第43話/99話 「始める 夏を」
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7月25日(月)
「まあ、そんなわけで、『全楽』の楽譜が来た。これでアタシはまた上手くなる」
一昨日、師匠に、楽譜と解説詳細をもらったアタシは、朝からテンションが高く、そのことをアキに自慢していた。
自慢したかったのは、おそらく師匠の愛情。照れくさくて、その言葉は使っていないけれど。
目の前の天才を見返すためのものだとは、さすがに本人には言っていない。
『ベータ―カプセル』も『シシノヒトミ』もわからなかったので、アキへの説明には使わなかった。
師匠に「もっといい例えないんですか。師匠の頃だってコンパクトで変身する魔法少女とかいたでしょう?」とか言ったところ、「ああいうのは陳腐化するのよ。……あたしをまたババア扱いしたでしょ」と少し怒られた。
昨日の、ほんの少しの生理痛と、体全体に重りをまとって、皮膚を分厚くしたような、課題曲の初レッスンは辛かったけど、それはそれで良い糧になるはずだ。……なってくれなければ困る。
今日はほぼ絶好調だし良い日になりそうだ。
上がる気温と比例するように上がるアタシのテンション。
ランニングのための学校へ、アキと並んで向かいながら、アタシは、強くなれる自分を確信していた。
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校門から学校の校庭に入ると、遠くの、アタシたちとはちょうど校庭を挟んで対角線上の反対側、通用口の方で、何か準備をしている子供たちが見える。
アキが以前話していた「夏休みの朝は少年野球をやっている」というやつだ。
人が誰かは分からないが、野球をやっているなら、トモクニも多分いるのだろう。
「邪魔しないように、こっちの方で走ろうか」
軽い調子でアキが言う。
アタシたちは、校庭のふち沿い、少年野球とは遠い方を往復する。
何度も何度も。
野球をする子たちの、大きな声が聞こえる。
いつだった、アキが言った「僕もがんばろうって思える」というのは嘘ではなかった。遠くの、頑張る声が、息を切らして走るアタシの背中を押す。頑張っているのがアタシだけではないというのが力になる。共感が足を前に進ませる。
体は酸欠で痛くても、心は満たされていく。
ゼイゼイとアタシが息を切らす中、アキは言った。
「そろそろ行こうか」
「ん、どこへ」
「ラジオ体操」
うかつだった。
夏休みの朝は町内会のラジオ体操がある。
天気の悪い日が多かった昨年も、アタシはちゃんと出ていたのだが、ランニングの習慣はなかったので忘れていた。
集まる公園までの道を歩きながら、アタシは言う。
「ねえ、アタシ、スタンプカード持って来てないんだけど」
カードのノルマの回数が何回であるかは忘れていた。
毎年、雨天時以外のアタシはほぼ皆勤であるから気にしたことがない。
「別にいいでしょ。別にスタンプカード押してもらうのが目的じゃない。どうせシオリは毎日来るんだし、1回くらい」
アキは軽くそう言って笑う。
そうか。言われてみれば、別に多くのスタンプもらって「お前は真面目だな」と評価されるのが目的ではない。
たかがラジオ体操でも、アタシと違う視点はある。
アタシが感心しているとアキは言った。
「ま、僕はカード持って来てるけど」
……コイツ。
ラジカセの音に合わせて体操をする、まだ眠そうな子供ら。
中にはスズちゃんもいる。さっき、お互い手をあげて挨拶した。
少数の大人たちも眠そうな人もいる。
それでも、きっと、みんな今日1日頑張る人たちだ。
去年はあまり他人のこれから始まる1日なんぞ気にしなかった。
アタシの視野が広がったのか、アタシの「頑張る」に対するセンサーが鋭敏になったのか。悪い気分ではない。
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ラジオ体操、朝食を終え、再度学校へ行き、職員室へ寄って、音楽室へ向かうアキと別れて教室へ。
冬休みと同じルーティン。
違うのは、閉めたカーテンと開けた窓。
アタシは、集中した自分を感じながら、師匠に言われた通り、1時間弱に縮めた基礎練習から、今日の修練を始めた。
基礎が終われば課題曲。
師匠から渡された課題曲「モーツァルトの協奏曲ニ長調」 。
見本として師匠が吹いてくれたそれは、とても透明で美しい、光の中にいると感じるような曲。
元はフルートのための曲ではないと言う。歪なアタシにぴったりだ。
要求される技巧は数多い。
聴く方が光の中を感じるのなら、つまりそれは、吹く方は光の中に立たされるということ。
夏の日差しのような。
影があればすぐわかる。迷いがあればすぐわかる。音の端に、微細な揺らぎがあっても、そこだけが目立つ。
明るいということは、逃げ場がない。ロングトーンをごまかせない。タンギングをごまかせない。ビブラートをごまかせない。
曲表現に感情は要らない。技術のみがそれを為す。師匠の思想が出たような曲。
サボるな。芯を通せ。これがアタシの曲だ。この夏、一緒に進むアタシの曲だ。
じっとり暑い教室の空気に汗が噴き出て、吹いているとすぐ喉が渇く。
持ってきた水筒だけでは足りず、トイレの前の手洗い場で水を飲む。
外のそれよりは冷たい水が、火照るアタシの体を整える。
また教室へ戻り、アタシは繰り返す。
何度も何度も繰り返す。
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昼食のためにいったん家に戻り、午後も再度教室へ。
何か食べる物を持ってきた方が、練習時間をもっと確保できるのにな、と思うが、アキにその提案をしたところ「夏の食中毒ヤバいらしいよ。特に僕たちくらいの子はやめようよ」だった。
アタシは、おそらくはストレスで傷んだ自分の消化器系が、まだ強くはないことを自覚しているので、言うことを素直に聞いている。
午後はアタシたちの地区の、プールの割り当てがある。屋内の温水プールよりも、アタシは暑い日の外のプールの方が断然好きだ。午前の帰り際、アキが、どうする?と訊いてきたが、今日は、もう少し練習が形になりそうだったのでやめておいた。
明日は入ろう。アタシは泳ぐのは好きだ。
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午前と同じく基礎練習から始める午後の練習は、少し効率が悪かった。
特に後半。
乱れるピッチ、乱れる運指、少し苦しいブレス、ほんの少しキレの悪いタンギング。
集中が切れたのか、いや疲労か。気づけば、喉が痛くなりそうな兆候まである。
それでも、とアタシは思う。
少し前なら指をつっていたであろう箇所も、息が上ずりそうと楽譜を見た瞬間に感じる箇所も、今はそれぞれアタシの限界の中にある。
曲も、再現性はまだ悪く、1回1回がほんの少しずつずれて、別な曲のように感じる。
それでも、とアタシは思う。
この先にある、同じ曲を、師匠に言われるとおりに、全く同じに吹ける未来。それを、アタシは信じられる。師匠のことを信じている。
だからアタシは繰り返す。
何度も何度も繰り返す。
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「疲れたね。提案なんだけどさ、明日の午前はラジオ体操の前にご飯食べておいてさ、終わったら、すぐため池の方行かない? 午前はバス釣りの人たち少ないし」
帰り道、少し疲れた顔をしたアキがそんなことを言う。
学校まで歩く時間、ため池まで自転車で行く時間。距離は後者の方がずっと長いが、時間にすればそこまでの差はない。
ただ、最近始まったバスフィッシングのブームで、ため池は人がいることが増えた。
食えない魚を釣って何が楽しいのかと思うが、まあアタシのフルートだって別に食えるわけじゃない。やることが違うだけだ。
練習場所にも気を使うが、他の楽器を吹く人がいて、音が混ざるよりは幾分マシだ。
「う~~ん……ランニングどうするの?」
「やらないか、もっと早い時間にやろう」
「……基礎体力は欲しいからサボるのは無し。……30分早く集合しよ」
集合場所はアタシの家の前だから、コイツは起きるの多分アタシよりほんの少し早いんだよな。
そんなことがちら、と胸をよぎる。
「よし、決まり。ため池良いよねえ。広いから、離れれば音混ざらないし」
……混ざらないと思ってるのは、アタシのフルートの音が、アンタのトランペットよりずっと小さいからだぞ。
ちょっと卑屈にそんなことを考える。
アキのトランペットはどこにいても響いて、通って、よく聞こえる。
自分の演奏に集中していれば気にするほどではないが、聞くと嫉妬、羨望はしてしまう。
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「姉ちゃん、ぼくのところで、ねないでよ。あせくさくなるでしょ」
日課の表情筋の鍛錬を終え、上半身を柵の切れ目から二段ベッドに預けるアタシに、シュンが言う。
「うっさいなあ……。もうシャワー浴びたから平気だよ」
女の子に汗臭いとか言うなよ。失礼な弟だな。
お前、クラスの女子にそんなこと言わないだろ。
「そう? さいきん、姉ちゃん、あせいっぱいかくから。……でも上いってよ。ぼくのばしょじゃん」
「……上、登るのダルいんだよね……。今度、場所交換しない?」
「え~~……朝におこしてくれなくなりそうだから、ヤだ」
「1人で起きなさいよ、まったく……」
大体、起こしても、お前起きないじゃないか。
甘ったれな弟の抗議を受け、気だるい重さとともに梯子を登り、自分の寝床へもぐりこむ。
体は疲労感と充実感に包まれて……そのまま意識が落ちる。
次の朝に、アラームが鳴るまで。
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アタシはこんな日を、この夏ずっと繰り返す。何度も何度も繰り返す。
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第43話/99話 「始める 夏を」 終




