第42話/99話 「受け取る 痛みの中で」
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朝5時。
山のかげから昇ったギラギラした塊が、早くもエネルギーをまき散らす。
汗を飛ばすには弱々しい風が吹きつける。
1つ、風が通るたびに、アタシの世界が目を覚ます。
暑さに、寝てはいられんと、カラスやスズメがそこらをさえずり、飛び回る。
よその家のへちまのツタが、太陽へ向けて手を伸ばす。
生命力にあふれた季節。
夏は好きだ。
フルートのピッチが下がらない。
〇
7月25日(月)
「おはよう!」
「おはよ。シオリ、今日は元気いいね」
「ふふん、きたのだ。アタシの魔法のステッキが」
話は少し遡る。
〇
7月23日(土)
「師匠、すみません、ちょっとトイレ……」
「待ちなさい」
レッスン中に、もうダメだと席を立とうとしたアタシに、師匠の鋭い声が飛ぶ。
「あんた、今日、生理酷い日でしょ」
「……うっ」
図星であった。
日課のランニングも、今日はサボっている。
「……やっぱり。朝からどうもおかしいと思ってたのよ。なんであたし、気づかないのかしら……。音が全然違うのに。師匠失格だわ。最低ね。……とりあえず、トイレ、ちゃんと済ませてきなさい」
「はい……」
ちゃんと済ませて、トイレから戻ったアタシを、師匠は淡々と問い質す。
「今日一番酷い日?」
「多分。はい」
「なんで言わなかったの?」
「……いつも通りやってほしかったんです。せっかくのレッスン、無駄にしたくない……」
「朝から、音程もビブラートもおかしかったのは?」
「お腹に響くの、キツくて……」
「ぶっちゃけどう? やれそう?」
「やれます。やらせてください。……でも、ちょっと待ってください」
師匠にバレたので、隠していた後ろめたさが解放され、気が抜けたのか、体の重さと痛みとダルさが一気に押し寄せてきていた。
やれます、と言っているが、少し、やれないような気がする。
ちょっと待ってください、と言っているが、気力が整うには、ちょっとではない時間がかかりそうだった。
正直、吐き気もある。
「少し休む?」
「大丈夫です。休みは要りません」
「……薬は飲んでる?」
「痛み止め、先月試したんですけど、アタシ効きすぎちゃって、練習できなくなるから……」
師匠は、はあ~~、と大きく息をつくと、こう言った。
「あたしの薬でよければあげるから、ちょっとソファに横になりなさい。ブランケットと、あとで湯たんぽ持って来てあげるから。あ、コンタクト、外しちゃいなさい」
アタシは、学校とレッスン中は、以前の眼鏡から、コンタクトを付けるようにしていた。
正直、今日は、目もゴロゴロして、不快感と鈍く重い痛みが堪らなかったので、師匠はそれもお見通しらしい。
「……真夏に、湯たんぽ使う羽目になるとは思わなかったわ」
「師匠は、つかわないんですか。……楽になってきました。気持ちいいです」
アタシは、大きなソファに横になり、毛布を掛けられている。
側臥位とかいうらしい。
毛布の中で、師匠のくれた湯たんぽを抱いていると、体全体が温かく、大きな安心に包まれる気がした。
「あたし、軽い方だし、薬飲むのサボったりしないもの。どっかのバカ弟子と違って」
「……ズルい。……。……今、バカ弟子って言いました?」
「我が弟子って言ったのよ。薬、効きすぎるって言ってたわね」
「そうなんです。感覚が鈍くなるような気がして」
ママがくれた痛み止めの薬は、子供のアタシには効きすぎるのか、指先の感覚が全くではないが無くなってしまう。
ゴム手袋をはめながら演奏しているように感じ、とても繊細な指使いは無理だ。
師匠は、横を向いて寝ているアタシの顔の傍に来ると、とろんとしたアタシの目を見ながら、少し怖い目でこう言った。
「……今日が一番重い日なら、明日は軽くなるわね」
「……はい。全然違うと思います」
経験はほとんどないが、おそらくそんな気がする。
「……よし」
師匠は目を瞑ると頷いた。
アタシはその意味が分からない。
「? なんですか」
師匠は、目を開けるとこう言った。
「今日の実技は終わり。明日は、薬を飲んでレッスンしましょうか」
「……全然、吹けないですよ。どろんとしちゃうんです」
薬が効かないのも困るが、効きすぎるのも困る。
「その感覚に慣れるのよ。最低でも、平常時の9割の力は出せるように訓練するからね」
「……薬、気持ち悪くて嫌です。」
師匠の薬が効いてきたのか、今だって少し眠い……。
湯たんぽ効果かも知れないけれど。
師匠は、アタシに言い聞かせるようにこう言った。
「あんた、コンクールの日に、それだったらどうするの」
「……」
返す言葉はなかった。
「普段なら吹けるのに、とか言って負けるの、一番ダサいわよ」
「……。……はい」
師匠の言葉は厳しい。
が、正論で、アタシを納得させる説得力に満ちていた。
「あたしは、9割の力でも勝てるように、あんたを鍛えてきた。信じなさい。あと3か月。あんたの努力を、あたしは無駄にしたくない」
「……わかりました。じゃあ、午後も吹いた方が良いんじゃないですか」
練習時間を少しでも確保すべきではないのか。
アタシはそう思っていた。
「駄目よ。変なクセつきそうだわ。ダメの見本みたいなビブラートさせて何言ってんの。ヤギの鳴き声みたいよ」
「なんですか、ヤギの鳴き声って」
「何、貧乏人はヤギもしらないの。こうよ『ヴェ、ヴェエエエエエエエ』」
師匠は、なぜか変顔とともに、ヤギの鳴きまねをしてみせる。
「ぷふっ……くっくっくっ……ヤギくらい知ってますよ。声は聞いたことないけど」
「ヴェ、ヴェエエエエエエ」
「くっくっく……くくっ……やめてくださいよ、お腹痛いのに……ぷぷっ……大体、それあってるんですか……くくっ」
師匠の鳴きまねは、アタシのツボに入ってしまい、苦しいのに笑ってしまう。
合っているかもわからない謎の鳴き声と変顔に、体がダメージを受ける。
「何よ。結構、自信あんのよ、これ。はい、少し笑って疲れたら、眠っちゃいなさい。自然に起きたら、ご飯食べて座学だから。……『ヴェ、ヴェエエエエエエ』」
「くくっ……はい……痛う……くくっ」
笑っていたはずなのに、気づけば意識が落ちていた。
〇
少し寝た後、……いや、結構寝た後、アタシは目を覚ました。
食欲は無かったので、テーブルについて、少しのゼリーを師匠にもらう。オレンジ味。おいしい。
痛み止めは効いているが、思考はそれに伴って……ぬるい。
コンタクトはつけたくないので、眼鏡をかけている。
ひと段落した後、師匠がニヤリとした笑みとともに。
「と、いうことで、――はい、これ」
パン! という音とともに、目の前のテーブルに、楽譜と、それと別に1冊のノートが叩きつけられる。
「なんですか?」
「中を見てみなさい」
ノートを開けて中を見る。
「楽譜は、今年の『全楽』の課題曲Ⅳ。モーツァルトの協奏曲ニ長調……の抜粋。課題曲の中では、一番技巧が試される曲ではないけれど、あんたに一番向いているはず。曲の名前なんか覚えなくていい。あんたはこの夏これだけ吹きなさい」
見れば、ノートの内容は、楽譜の小節、フレーズごとにページをびっしり解説で埋めたものだった。
各ページに師匠の字で、数字と、まとまりのない日本語、それに簡単な音楽関連の語と、あまり上手ではない顔の絵が描いてある。
「……師匠」
「全然アーティキュレーションを理解してくれないあんたのために、可能な限り、あたしの言葉で書いておいた。音量も100を基準に書いておいた。テンポも、アンブシュアも、ビブラートも、音質もあたしが指定する。作曲者の心情も、奏者の独自の解釈も気にしなくていい。このノートを丸暗記して、丸まんま吹けるようにして、あんたは勝ちに行く」
矢印をひっぱったり、統一感の無い絵で解説したり、かと思えば、『ここは見せるから覚える』とか書いてあったり、作成者の慣れてなさが伝わるノートだった。
ぼんやりした頭で見せられなければ、アタシは感動して泣いていたかもしれない。
多分、こんな体調でなければ、師匠の思いやりで、弟子が感激する場面だ。心のどこかでちら、とそんなことを想う。
間の悪い師匠と弟子だな、とも。
「師匠、ありがとうございます」
一言、アタシはそう言った。
ぱらぱらとページをめくる。
鈍くなった頭の思考でも、師匠の愛情が伝わってくる。
「じゃあ、明日からそれを吹くから。最初の日が、痛み止めの中なのは大変だけど、それよりコンディションの悪い日はそうそうないでしょうから、上達を実感できるはずよ。……ん?どうしたの」
アタシのページをめくる手が止まり、師匠がそれを目敏く見つけてくる。
手を止めたページの、100を基準に音量を示す数字の桁が明らかにおかしかった。
「……師匠、なんですか、この……いち、じゅう、ひゃく、せん、まん、じゅうまん、ひゃくまん……、……、一兆って」
「この曲の最大音量を出せって意味よ。そう書くのがアタシの流儀なの。フルーティストの間ではそう決まってるのよ」
「……ウソですよね。ノリで書いたでしょ」
「細かいことに拘る弟子ねえ。……ああ~~~~っ!!!!」
師匠が、何かに気づいたというように、頭を抱えて叫ぶ。
「なんですか。響くんで、あんまり叫ばないでください」
「はあ……。あんたにこれ渡すときの決め台詞を考えておいたのよ。やらなかったなあって」
師匠は顔をアタシからそらす。
かと思えば、そのまま、アタシの方を何度も、ちら、ちら、と見てくる。
師匠のことは、結構わかってきているアタシは言った。
「……やりたいんですよね。いいですよ」
ノートを閉じて、一度、師匠へ返す。
「お、良い成長をみせてきたじゃないの。我が弟子も」
差し出されたノートを受け取って、師匠は照れたように笑う。
そのまま師匠は、コホンと咳払いを1つして、鍛え抜かれた表情筋を活かしたキメ顔で、アタシに言った。
「受け取りなさい。あんたを光の巨人にする、ベーターカプセルで、獅子の瞳よ」
……。
沈黙が空間に満ちる。
「師匠、すみません、ベーターカプセルとシシノヒトミ? ってなんですか」
おずおず、と。
もう一度差しだされたノートを受け取りながら、アタシは尋ねる。
「はぁ……。アニメばっかりじゃなく特撮も見なさいって言ってるじゃないの。ウルトラマンよ。ゴジラであるあんたの同級生を倒すには、ウルトラマンしかないじゃないの」
「……ウルトラマンは40メートルで、ゴジラは100メートルだから、ゴジラの方が強いって男子が言ってますよ。アタシ、そんなにアニメも見てませんし」
いつもは心の中で受け流す師匠の言葉に、ぼんやりしたアタシはうっかり反論してしまう。
アニメオタクだと思われているのが、イラっとしたのだろうか。
「ふうん。……最近見たアニメ、何?」
「……アキの家で見た銀河英雄伝説。リーニャ先生の日本語勉強用らしいです」
アキが時々、アタシを家に誘うのはまだ続いていた。
リーニャ先生のお下がりだというアニメのビデオがたまると、「一緒に見よう」とアキはアタシを家に呼ぶ。正直、すごく面白いので誘惑には逆らえない。
小説原作のアニメなのだが、最近、その小説もママに買ってもらい、学校で空き時間に読んでいる。
「えっ、子供が銀英伝みてんの? いや、クライシーヴァ、アニメ見るの? つか、あんたら、おうちデートなんかしてんの? 情報が多いんだけど」
師匠が、一段テンションをあげて語りだす。
色々聞かれても、回らない頭ではなかなか答えられない。
「おうちデートってなんですか。そういうのじゃないです。友達の家に遊びに行くくらい、普通じゃないですか」
正直、聞かれても困る。
「でも、2人きりなんでしょう?」
「だいたいそうですけど。師匠は子供の頃、近所の友達の家に、行ったりしなかったんですか?」
「……友達の家には、アポとって、車で送り迎えしてもらう以外の行き方はしたことないわね……」
多分、アタシとは育ってきた文化が違うんだろう。
〇
第42話/99話 「受け取る 痛みの中で」 終




