第41話/99話 「重ねる 小さな変化を」
〇
大きく息を吸う。
潜る。とぷん。
前に進む。
ほんの少し慣性で進むに任せ、手を漕ぎ始める。
腕で水を掻いて進む。
脚も蹴る。ゆっくりと。
キイン、キイン、キインと耳鳴りがしてくる。
まだ早い。
腕で水を掻いて進む。
脚も蹴る。何度も蹴る。
高かった耳鳴りが、ゴウン、ゴウンと重い音に変わる。
もう少し。
まだ先へ。まだまだ先へ。
苦しい。鼻から空気を吐き出す。
まだいける。まだまだいける。
苦しい。肺の空気を吐き出す。胸がしぼむのがわかる。
重かった音が、ガン、ガン、ガンと体全体を殴りつけてくるような感覚に変わる。音ではなく感覚に。
必死で水を掻く。もう少し。あと少し。
目指した壁に触って、浮上する。
クリアした記録。クリアになる視界と充満する酸素。
目標は、夏前に達成できた。
アタシは、進んでいる。
〇
7月15日(金)
「ピアノってすごいよねえ」
アタシは、ぼそっとそんなつぶやきを漏らしてしまう。
いつの間にか言っていた、心から出た本音だった。
楽器クラブの活動中。
休憩、というわけでもないが、少しの間が空き、弛緩した時間。ヒロト君が突然、アタシの知らない曲を1人で弾き出した。
ペダルを使い、時々鍵盤から手を離す瞬間も作り、頭を振り、目もときおり瞑ったりして『情熱的に』。
アタシは、音楽記号の中で、発想記号と速度記号の一部について、理解が極めて苦手だ。
「用語そのままならともかく、『生き生きと』や『活発に』がわからないと言われたのは初めてだわ……」とは師匠の嘆きである。
正直に言えば、曲によって、同じ記号なのに速度も変わるし、同じ記号なのに吹き方も違うのが理解できなかったりする。
書いた本人もわかってないんじゃないのか、これ、と思うこともあるが、わかっている振りをするのがフルーティストだ。らしい。
それも師匠の受け売りだけど。
ほぼ、諦めているらしく、音量も音質もアンブシュアも息の吹き方も指定し、「こうよ、こう」でやってみせてくれるので、話は早いのだが。
まあそんなアタシの苦手分野、感情を込めた楽器の使い方を突然、ヒロト君は始めた。
今日は、アタシとアキの伴奏ばかりだったから、退屈だったのかもしれない。
トランペットはともかく、フルートの伴奏をしてくれるのは、ピアノとしてはかなり音を抑えて、制約も多いだろう。
鍵盤の上を踊るように手がはい回ったかと思えば、某野球漫画の鼻のデカい秘打二塁手でしか見ないような手の跳ね上げ方。なお、キャラクターは知っていても読んだことは無い。
頭を沈めたり、目を閉じて少し伸びあがるようにしてみたり、かと思えば突然ぷるぷると左右に。
音はそれに合わせて、曲の整合性は乱さず、それでも生き生きと、情熱的に、華やかに、優美に、力強く、気まぐれに、陽気に、進む。
でたらめな曲でないことは、メロディーが綺麗すぎるからわかる。
アキはそれを、椅子に座ったまま、目をキラキラさせながら、身を乗り出して聞いている。
アタシの後ろでは、小牛田先生が、うんうん、とリズムに乗っているのかいないのか。わからない聴き方をしている。
技術をちりばめた曲が終わると、アタシは少しの幸福に包まれていた。
と。
ひとしきり弾き終わったヒロトくんが、少し虚空を向いた後、また、違う曲を弾き始めた。
そばにいるアタシたちに反応を求めない。でも自分が楽器を弾いている自分が好きで、かっこいいと思っている、少しナルシスティックな自分への酔い方。アタシは嫌いではない。同じ酔い方を師匠もする。
弾き始めたのは、同じコードが、オクターブを変えて何度も繰り返される、少しストイックさを感じる曲だった。
さっきまでの華々しい技術を見せつける曲とは少し違う、似たフレーズを繰り返し、何度も、自分を、あるいはこちらを鼓舞するような曲。
後ろで小牛田先生がなにか口ずさんでいるから、おそらく元はボーカル付きの曲なのだろう。
「~~~、ハンギンタフ、ステインハングリ~……♪」
その部分だけが聞き取れた。
途中に抒情的なメロディーと、煌びやかな技巧を見せつけるフレーズがほんの少し入って、その曲は、再度元に戻り、同じフレーズを繰り返す。
いつも明るく、アタシたちを盛り上げる上級生のヒロトくんからは、あまりイメージがわかない曲だった。
しかし、三連の低音を重ねたパターンを何度も何度も繰り返し、小さな変化を続けるその曲は、不思議と弾きなれて、とても似合っているように感じる。
進むことよりも『積む』ことを続けるところに。上達を信じて、自分を鍛えるような、おそらくは弾く本人のように。
淡々と、小さな変化を、ただし力強く、積み重ねて、ほんの節目で輝くような。
輝いても、決してそのままどこかへ行かずに、また、元に戻り、一歩一歩進む。
気ままに弾いていても、決して乱れずに進むそのメロディーは、その裏に弾き重ねた努力を、重厚に伝えてくる。本人に意図はなくても、アタシたちに伝えてくる。
弾き終えたヒロト君に、アタシの口から出た言葉は
「……いい曲だね。もう1回聞かせて」
だった。
アタシも、進む日を信じて力を蓄える気分を感じてみたかったから。
〇
アタシのリクエストに、ヒロトくんは黙ってうなずいた。
ヒロトくんにとってもお気に入りの曲だったらしく、弾き終えて、「言われてみれば、この曲いいな、もう1回弾こうかな」とつぶやくヒロトくんに、アキが「そのままでいいから、僕も入っていい?」と訊く。いてもたってもいられず、というのはこういうのだろうか。
笑顔で応じるヒロトくん。
他の楽器と一緒になると、本来、場を落ち着かせるように聞こえるピアノに、トランペットの華やかな音色が加わる。
ただ、即興で加わったトランペットは、この場の主役は僕じゃないですよ、と言わんばかりに、ほんのごく最小限のきらめきを加え、ピアノの存在感をより引き立たせた。
空間に満ちる美しいハーモニーにアタシは少しの悔しさを覚える。
練習した曲を吹くのは、アタシには出来る。
でも、アキにとって、この曲はきっと初めて吹く曲のはず。曲として知ってはいるかもしれないけど。
それでも簡単なパッセージとフレーズを組み合わせて、ヒロトくんの弾く曲に、いともたやすくアキは加わった。
自分だって吹けるんだぞ、という主張ではなく、あなたと一緒に吹きたい、という敬意を含んだ音色で。嫌味ではなく、そばに寄り添うかのように。
アタシとの差を感じる。アキは、アタシが『覚える』から始めるところを、『つかむ』から始めてしまう。イメージをすぐに音にできるのだ。アタシは、良いと思ったメロディーに、何を乗せて良いかも判断できない。
アタシもいつかはこうなりたい。同じ楽器でも、違う楽器でも、上手い人の曲に感動したら、その場で入っていけるようになりたい。
楽器を上手く吹くだけでは届かない光景を、目の前で見せられ、無数にあるアタシの目標は、また1つ増えた。
アタシにしては珍しく、劣等感より先に憧れが来た。
その曲が、小さな研鑽を繰り返して、いつか前に進む、そんな曲だったからかもしれない。
〇
「ピアノってすごいよねえ」
先の言葉につながる。
アタシは、ぼそっとそんなつぶやきを漏らしてしまう。
いつの間にか言っていた、心から出た本音だった。
「わき役も一流なのに、主役やらせてもすごい、なんて」
先日、行われた市のアンサンブルコンテスト。
順位もあってないようなそれに、小牛田先生の尽力の甲斐あって、授業をサボったアタシたち3人は参加している。まあ、別にサボりにはならないらしいけど。
師匠は「おお! どうやってコンクールの、『全楽』の舞台裏を体験させてあげようか悩んでたけど、コンテストに参加するならちょうどいいわ。楽屋裏とかリハーサルのつもりで見てきなさい」なんて言っていた。
ただ、ピアノを際立たせるのは、よくわからないけど、『レギュレーション違反』らしく、ヒロトくんのピアノはあくまでフルートとトランペットの伴奏どまりだった。
こう聞くと、十分に主役を張れるピアノを、あんな風に使うのは勿体ない気もするし、少しの罪悪感すら感じてしまう。
「シオリ、主役とかわき役みたいな言い方は良くないよ」
アキがたしなめてくる。
そういえばコイツと喧嘩したのは、アキがアタシに、主役に感じるメロディーばかり吹かせる『ままっこ扱い』をしてきたのがきっかけだった。
「ん」
「それにさ、ピアノがすごいんじゃなくて、ヒロトくんがすごいんだよ」
「あ、そっか。ごめんね、ヒロトくん」
アタシは、昔ピアノを習っていて、あっさりやめているから、ピアノがすごいわけではないのを知っているはずだ。
なのに、敬意を欠いた言い方だった。
「ううん、気にしないで。それにオレはピアノが好きだから、ピアノがすごいって言ってもらえるとうれしいよ! そうだな、シオリちゃんも『フルートすごいね』って言ってもらったらうれしいでしょ?」
ヒロトくんはあくまで陽気に返す。アタシに気をつかわせないように。
それでも、質問はアタシの同意できるものではなかった。
「どうかな、アタシはそこまでフルートが好きじゃないし……。楽しいは楽しいけど」
アタシを見くびったアキに勝つ手段にすぎない、アタシはそう考えている。
好きになったところで、いつかはやめなければいけないものだし。
「へえ、珍しいねえ! ……好きじゃないのにあんなに吹けるんだ。才能があるのかなあ」
ヒロトくんがそんなことを言う。
師匠は「才能? あんた欠片もないわよ」と言っていたが、他人に認めてもらうのは気分が悪くない。
「伴奏も楽しいんだよ。主役とかわき役じゃないよ」
横からアキがそんなことを言う。
「……初鳥さんには、早めに、もっと、大人数で吹く合奏の場を体験させてあげたいねえ」
アタシたちのやりとりを見ていた、小牛田先生が、いつものゆるい調子で言ってくる。
しみじみと、小牛田先生は続けた。
「音楽には、主役も脇役もない。みんなで作るものなんだけど……。初鳥さんのフルートだって、作り上げるための大勢の一人になれるような……。その中で。う~~ん、僕がもっと有名な先生とかだったら、人を集められるんだけどなあ」
「先生、オレは、この4人で十分楽しいですよ!」
少し哀愁を込めた言い方だった先生に、元気よくヒロトくんが返す。
「そうだね、少ない人数が悪い、みたいな言い方は良くなかったな」
笑いながら、先生は言う。
「でも、ピアノはすごいよね。主役とわき役って見方だけじゃなくて、右手でメロディー、左手で伴奏、みたいなことも出来るでしょ? アタシもピアノ続けてればよかったなあ……」
トランペットもフルートも、同時に1つの音しか出せない。
両手を使って、同時にいくつもの音を出せるピアノは、その点も素晴らしい。
最後の一言は余計だったかもしれない。
アタシはピアノの上達よりも、ピアノの先生の指導がきつくて逃げてしまった人間だ。
「シオリ、それもヒロトくんがすごいからだよ。……それにトランペットだって、同時に2つの音出す奏法はあるよ」
なんだか、少しムキになったように、アキが言う。
普段穏やかで何を考えているかわからないコイツは、トランペットのことになると、少し感情が出る。
「でも、メインじゃないでしょ? そんなこと言ったら、フルートにだって、ダブルタンギングで『ちょろまかす』吹き方くらいあるよ」
師匠の受け売りだけど。
「ぶ~」
「あっ、すねた!」
ヒロトくんのツッコミに、アタシたちは、アハハと笑った。
〇
「アキはどうして、その場で音が出せんの? ヒロトくんが弾いてた曲、吹いたことないでしょ?」
帰り道、アタシはアキに尋ねる。
「う~~ん、なんだろう。……先生は『センス』って言うよ。僕は、合いそうなフレーズを出すだけだよ」
……天才め。
その『合いそうな』フレーズの探し方、出し方をアタシは聞きたいのだが。
「いっぱいフレーズを覚えて準備すれば、曲に合わせて出せるようになったりすんのかな。初めて聞く曲とかでも」
「どうだろうね。出来ない人は出来ないのかもしれないな。僕には出来ないことがわからないから」
少しの希望を込めて聞いたけど、アキの答えはやっぱりアタシの期待したものにはならない。
まあ、いい。
やり方はアキと違うものもあるかもしれないし、出来るときは出来る、そんなもんだろう。
即興での合わせ方も師匠に聞いておこう。技量が足りないと言われるかもしれないけど、それは練習で何とかなる。
今は、そういうのを覚えたい、それを見たことが大事なんだと思う。
「そういえば、『全楽』のエントリーもうすぐだよね。準備進んでる?」
全楽――全日本楽器コンクール。
コイツが去年実力を見せつけて、それでアタシはフルートにのめり込んだ。
「まず本選に進まないと相手にされない」という師匠の言葉で、本気になったのは、すごく前にも感じるし、上達の遅さを想えば、とても短く感じてもいる。
実力はきっとついている。辛いレッスンに耐えて。そうでなければ困る。
師匠の実力だって本物だ。ついていけないなら、アタシが悪いということになる。
「……まだ。3ヶ月前だけど、こんなに早くから申し込めるんだ? ……きっと、師匠が、その時になったら、やるべきことを教えてくれると思う」
焦るな、焦るな。
アタシはきっと上手くなっている。
師匠もそう言ってくれている。
「そっか。お互いがんばろうね。ああ、楽しみだなあ」
下校時刻になっても、まだ沈む気配はない太陽の下で、アキ――今日も、ため池のほとりに練習しに行くであろう天才トランぺッター――はにっこりと笑う。
吹き足りないし、アタシも今日は行こうかな。
『みんなで作る音楽』。そうではない、アタシの当面目指すところは、少しずつ近づいてきていた。
〇
第41話/99話 「重ねる 小さな変化を」 終




