第40話/99話 「空 低く暗く」
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低い低い空だった。
押しつぶされそうな黒だった。
一面、雲に覆われて、立体感のない平たい場所にアタシはいた。
季節柄、雨が降ってもおかしくない空からは何も落ちては来なかったが、冷たい空気がとても静かで、この場がどんな場であるかを否が応でも認識させられる。
ここがアタシの住む場所と、物理的に繋がっているという事実は、とても信じられず、断絶された空間にいるかのような。
それでも、日常の閉塞感を固めて、物理的な重苦しさとしたような雰囲気が、現実と伝えてくる。
6月7日、目白商店の若旦那、アタシの叔父のマサアキさんは亡くなった。
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6月8日(水)
「シオリ、明日、倉貴に行くよ」
夕食時、ママにそんなことを言われる。
レッスンのあった日だから、アタシの帰りは遅く、家族より少し遅い時間である。シュンや祖父母はすでに夕食を済ませている。パパはまだ帰らない。
倉貴――毎年親戚回りで行っている、目白商店、従姉妹のモユがいるド田舎。
去年の夏は雨ばかりで面白くなかったけれど、あの日は珍しく晴れていて、暑い日だった。
マサアキさんとモユに案内された、きれいな川で、地元の子たちと魚取りをした記憶。それが一瞬で鮮やかにアタシの脳裏に蘇る。
あれは楽しかった。
「えっ、ホタル見に行くの!?」
マサアキさんが、夏前に蛍を見においで、と言っていた。
アタシは、ちゃあんと覚えている。
アタシは、記憶力は良い方だ。機転は効かないけど。
「……。」
「じゃあ、放課後、早く帰ってくるね。音楽室で練習しようかなって思ってたけど」
楽器クラブを始めてから、先生に言えば、金曜日以外でも空いている日なら、音楽室の鍵を貸してもらえる。
アタシの練習場所の選択肢は広がっていた。
アキも使いたいときが多いから、割と、取り合い、譲り合い、……まあ、じゃれるのも楽しい時間である。
同じ楽器なら、一緒に練習もできたのだろうけど。
「……。」
「ホタル、夜だよね。ジャンパー出しておいた方が良いかな? あ、でも、ママ、お仕事どうするの? 早めに帰ってくる?」
ド田舎たる倉貴までは、車でないと行けないので、ママが送ってくれるのだろう。
「シオリ、そうじゃないの」
「……ん?」
ママがなんだか、深刻な、悲痛な表情で切り出す。
「そうじゃないの。マサアキさん、亡くなったの」
「……は!? マサアキさんって、モユのお父さんのマサアキさん?」
「そう」
ひゅっ、と。一瞬で、アタシの頭は、体は冷える。
肌が泡立ち、寒気すら感じる。
「なんで? ……マサアキさん、まだ若いじゃん」
モユの母のミツコさんは、ママの妹で5歳くらい若い。
マサアキさんも同い年くらいだ。若くて、かっこいい。去年の夏、川の中で大きな網を振り回し、ひょいひょいと魚を取っていた健康な姿が脳裏に浮かぶ。
死んだと言われても、とても信じられなかった。
「なんでっていわれても……。明日は学校に行かないで、お葬式だから。私は今からお通夜に行くから、明日着る、少しきれいな服用意しておきなさい。」
「そんな……。……きれいな服なんか持ってないよ。買ってくれないじゃん」
ユミちゃんがたまに着るような、胸周りやお腹にフリル、ひらひらのついた服をアタシは持っていない。
「おさがりじゃない、シャツかトレーナーでいいから。清潔感さえあればいいから。じゃあ、今日は早く寝なさいね。行ってくるわ」
ママはそう言って出かけて行った。
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6月9日(木)
「あちこち癌だったそうよ」
「まだ若いのにねえ」
「若いから、進行が早くて……」
ボソボソと聞こえる、そんな大人たちの声。
アタシとシュンは所在なさげに部屋の隅にいた。
シュンが、時々、アタシの服をつかむ。
広い畳の部屋。
そこにたくさんの黒い服の人が集まって、出たり入ったりしている。
目白家は「本家」と呼ばれる家だから、近所の部落の人たちばかりでなく、分家の人たちも大勢集まった。みんなが静かに、ゆっくり動いているのに、全体でみると動きは多い。
部屋の前の方、仏壇がある少し手前の、棺がある場所には人だかりができているので、近くには寄れない。
いや、物理的に寄れたとしても、アタシは寄れない。
怖かった。
去年、いや、その前もずっと、アタシがこの家に来ると、楽しくもてなしてくれた人の死がそこにあると思うと、前の方に行く気にはなれなかった。
ミツコさんと、マサアキさんの両親――モユの祖父母の姿が見える。モユもそばにいる。モユの妹、1つ下のアヤホ、年の離れたミサカの姿は見えない。
人がひっきりなしに、お悔やみの挨拶にミツコさんとモユのところへ行く。
モユはアタシと同い歳なのに、堂々と挨拶を返している。
忙しそうだ。
モユにとっては父が、ミツコさんにとっては夫が、2日前に亡くなったばかりだというのに、あれでは悲しむ時間もないだろう。
とても悲しいだろうに。
挨拶に行く方も、行かないわけにはいくまいから、その場にいるのは誰も悪くないのだが、悲しむ間もないというのは、やるせない光景だった。
別に、葬式に出るのは初めてではない。
2歳の頃、アタシの曾祖母が病気で入院していて、そこに見舞いに行ったこと、その後葬式に出たことがアタシにはある。
アタシは、記憶力は良い方だ。
ただ、その時は何も感じなかった。
曾祖母はアタシにとって遠い存在で、一緒に暮らしたこともない。ものすごく長い煙管に入れたタバコを吸い、その吸い殻を、そばに置いた大きな壺の吸い殻入れに、逆さにした煙管からカアンと放り込む人。そのくらいのイメージしかない。89歳の大往生だったし。
悲しみが充満するこの場にあるのは、曾祖母の葬式とは違っていて、暗く沈んだ痛みだけだった。
まだ若い人が亡くなったからなのか。
それともアタシが、話して人となりを知っている人が亡くなったから、そう感じるのか。
場にいる人たちの気持ちが、表情から、雰囲気から、ぼそぼそと話す内容から、それぞれアタシにはわかる。
アタシにできるのは、なるべく音を出すべきではないという、場の空気に合った振る舞いと沈黙。
「ねえちゃん」
「ん」
ときおり、アタシの服をつかむシュンが、何か言いたそうに小さく呼びかけてくる。
返事をするが、続く言葉はない。
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呼んだお坊さんの読経をきいて、焼香をして。
棺のそばを通ったけれど、やはり直視は出来なかった。
見てはいけない気がしたから。
アタシが、亡くなった父親の棺を見ている姿を、モユに見られたくない気もしたから。
葬式の途中、ぜひ見てください、とマサアキさんの両親が言い、生前の姿を映したホームビデオが流された。その後に、マサアキさんの自作した、モユたち三姉妹へ送る歌を歌うところも流される。
それを流した後、モユたち姉妹は、3人で、みんなの前で同じ歌を歌った。
アタシなら、きっと歌えない。
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葬式が終わる。
モユたちの家族を先頭に、火葬場まで行く人たちとはお別れだ。
遺影を胸に、歩いていくモユ。
同い歳の従姉妹に、アタシはこの日、声をかけられなかった。
ママとパパは遺族に挨拶してきているから、やろうと思えば機会はあったはず。
だが、アタシは場の雰囲気に小さくなっているばかりで、近くにも寄れなかった。
寄ったところでかけられる言葉はない。
アタシは、モユのことが少し苦手で、そこまで好きでもないけれど、悲しんでいることは伝わってくる。励ましてやりたい気持ちはあるのだ。
……こういう、肝心な時に、アタシは無力だ。
「おう、お前ら。お疲れさん」
大勢の人ごみから、少し離れたところにいたアタシとシュンに、アタシの母方の祖父――モユにとっても祖父である――が右手を挙げながら近寄ってきた。
少し、明るい調子で、祖父は話しかけてくる。
自分の娘の夫が亡くなったのだ。悲しくないわけはない。
それでも、こういうときに、自分より立場の弱い子供に、明るくできるのが、大人という生き物だ。
普段から、豪快な祖父だが、そういう大人の一面は見習うべきだと思う。
「……あんな悲しい歌を、娘たちに、歌わせなくてもいいだろうになあ」
会話の中で、ポツリと祖父がそんなことを言う。
マサアキさんが作った歌は、明るいけど寂しさも感じる歌だった。
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大きな大きな水たまり それは何?
モユが大好き 広い海
モユはお船に 乗っかって
どこの国まで 行くのかな?
大きな大きな綿菓子よ それは何?
アヤホが大好き 白い雲
アヤホは雲に 乗っかって
どんな世界を 見るのかな?
大きな大きなでこぼこよ それは何?
ミサカが大好き 高い山
ミサカはお山の てっぺんで
どんな夢を 見るのかな?
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ふと、空を見上げる。
泣き出しそうな空は、その下にいる人たちの心を、そこに留まらせて離さない。
いっそそのまま雨でも降ってくれれば、悲しみを押し流してしまえるのに。
大きな建物もない部落の道は狭く、棺を送る列はすぐに見えなくなった。
自由を感じるほど広い場所にもある、何かを失った小さな悲しみ。
アタシはこの日、生きていて初めて、親しい人の喪失を見た気がする。
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第40話/99話 「空 低く暗く」 終




