言葉なしの信頼
翌朝、コートを羽織る肩が、いつもより低く感じた。
机の隅の事件1と2のノートには、ペンの蓋がまた乗ったままだ。
「行ってらっしゃい」
「行ってくる」
セレナの指は、机を叩かなかった。
玄関の前で、バルクハルトが待っていた。前と同じ立ち位置で、影が朝の光に長い。
「短くやれ。一度だけだ」
「短く」
エドが帳面を抱え直し、鉛筆三本がポケットで揃う。表紙はすでに四日分の重みを帯びていた。
三人で歩き出した。王宮までの道が、いつもより低く感じる。石畳が、靴底を冷やした。空気は乾いて、商人街の通りに、人の気配がまだ薄い。
王宮南翼の厨房と食堂の境目に、配膳通路がある。両者を細く繋ぐ位置に、ミラが立っていた。剣帯はいつもより低い位置で締められている。
「来たな」
「ここから動かない」
「分かった」
エドが食堂の奥、毒見役の卓から二歩離れた壁際で、帳面を開く。
厨房では、配膳係ミルセンが薬湯の壺を竈に置いた。香料の保管棚は、竈から両手を伸ばした距離だ。
俺は食堂の壁を背にして、厨房の入口を見ない位置に立つ。
厨房は、見ない。指示を出さない位置だ。
今日、俺の声は、ミラに届かなくていい。届く前に、あいつの身体が動く。それで、いい。
厨房の方から、湯気の薄い匂いが立ち始めた。少し甘い気がした。湯気は、見えないところで、もう動いている。
厨房の扉の向こうで、湯気が高く伸びる音がした。
頭の中で、線が引かれていく。薬湯の蒸気と、香料の気配が、同じ高さでほどける位置に。
配膳通路から、ミルセンが薬湯の盆を持って出てくる。盆の縁が、ミルセンの両手で揺れない。食堂の卓に、盆が置かれた。
毒見役が、杯に手を伸ばす——
その瞬間、俺の胸の奥で、何かが詰まった。指が冷える。掌が壁に触れたまま、動かない。声を出そうとしたが、間に合わない気がした。
ミラの身体が、ひと息よりも早く、配膳通路から滑り出た。剣帯の革が、低く一度だけ鳴る。
杯が、ミラの手で弾かれる。湯が、床に散った。陶器の砕ける乾いた音が、食堂の壁に短く残る。湯気が、毒見役の口元の手前で、薄く分かれた。
ミルセンが息を呑む。毒見役の口が止まる。
半分の動きではない。今日のミラは、丸ごとだった。
遅れて、胸の奥の詰まりだけがほどける。線は壁のこちら側にあり、身体は向こう側で、同じ時刻にそこへ届いていた。
厨房の煮立ちの蒸気が、急に低く沈んだようだった。
厨房の奥の扉が、半分だけ開いていた。誰かが、たった今、抜けた。
バルクハルトが廊下を走る。靴音が、石畳に低く響く。三歩、五歩、十歩。だが、石畳の先で音が一度途切れ、その先には何もなかった。
俺も続いた。だが、廊下の角に、影はもう、ない。曲がりの先には、長い廊下と、いくつかの扉があるだけだった。
「行かれたか」
「行かれた」
バルクハルトの灰色の目が、廊下の先で一度止まる。
誰が、何のために、二つの気配を組んだのか——紙の上には、まだ戻ってこない。
設計者は、廊下の影として、もう一度、残っている。
食堂で、エドが帳面に新しい一行を書いていた。廊下の角、誰かの足音、消えた、と斜めの線で書かれている。
夕方、事務所に戻った。セレナが机の前で、ペンを置いた。
「通った?」
「通った」
ミラが入ってきた。剣を壁際に立てかける。剣帯の革が、いつもの位置に締め直されている。湯が散った時の濡れた感触が、ミラの右手にまだ残っているような気がした。
「お前の身体に、明日も任せる」
「分かった」
短い返事だった。四日分の動きが、その二文字の中でようやく止まった気がした。
エドが帳面を机の中央に置く。表紙が、四日分の膨らみで、もう少し前に出ていた。
机の隅の事件1と2のノートには、ペンの蓋がまだ乗っている。点だけが、もう一度、薄く古びていく。
設計者は、まだ廊下の角にいる。
二つの気配を組んだ手が、誰のものかは、まだ分からない。
線は、まだ引かない。
窓の外の光が、いつもより低いように見えた。湯気の甘さだけが、まだ喉の奥に残っていた。




