広場の声
翌朝、机に座ると、湯気の甘さがまだ喉の奥に薄く残っていた。
机の隅に、古い二冊と、その横に先日まで開いていた一冊。三冊とも、ペンの蓋を乗せたまま閉じている。点だけが、それぞれの紙の隅で薄く古びていた。
事務所の朝は、暖がまだ薄い。コーヒーの湯気が、湯呑の縁で細く立っている。
扉が押し開けられる。エドが入ってきた。鉛筆三本がいつもより前に出ていて、帳面の表紙が、四日分の重みからまた少し前に出ている。
「広場で、アルク商会の名前が、出てるっす」
「昨日のことか」
「逆っす。毒を盛った側、として」
エドの息が、いつもより一拍浅い。
違う。止めた側だ。
だが、街の口は、紙を読まない。
商人街の朝は乾いていた。靴底の石畳が冷たい。エドと並んで歩いて、青葉草の仕入れ先の暖簾を分ける前で立ち止まる。番頭が暖簾の内から先に気づいて、顔を出した。
表情はいつも通りだ。ただ、目が一拍遅れて合った。
「来週の納入、一日遅らせてくれませんかね」
「相場ですか」
「相場、ですね」
同じ語が、二度目に薄く距離を帯びる。
番頭の指が、帳簿の縁を一度叩いた。セレナの机叩きとは違う、内側に向く乾いた音だ。
「分かりました。一日、待ちます」
番頭は深く頭を下げない。礼の角度が、いつもより一段浅かった。
店先を離れる。暖簾の布が、肩に薄く触れて戻る。
相場ではない。
日常の取引に、もう一つの天気が混ざっている。
中央広場は、いつもの混みかただった。三つの市場の一つに近い側に出る。屋台の油の匂いが立ち上がる。
俺は広場の端の柱に背を寄せた。視線を合わせない位置だ。
「ここから、聞いてくっす」
エドが歩き出す。屋台と屋台の間を、いつもの配達の歩き方で。三つの場所に短く立ち寄って、戻ってきた。帳面を開く。三行が、斜めに書かれていた。
あの商会、毒を盛った、と
店主の顔は、見たことがない、と
もう少しで死んでた、と
「全部、別の人っす。三人とも、初めて聞いた、って言うっす」
「いつ聞いた、って」
「今朝っす。三人とも、今朝」
柱の石の冷たさが、背中に薄く広がる。
三人。同じ朝。それぞれの市場で、同じ高さに重なっている。
ここまでは事実だ。その先が、まだ分からない。誰かが朝のうちに撒いたのか、それとも、別の口がもう先にあったのか。
先日、廊下の角で消えた誰かと、同じ手触りか。
それも、まだ分からない。
エドの帳面の紙が、陽射しで白く反射した角度で止まっていた。
夕方、事務所に戻った。机の中央にエドの帳面を置く。広場の三行が、紙の上で乾いた角度のまま並んでいる。
頭の中で、線を引いてみる。三つの市場、それぞれの初出時刻を、同じ高さに並べる。
並ばない。重なる。
もう一段、粒を細かくしようとする。だが街の口は、そこまで記録を残さない。「広場で聞いた」までしか、戻ってこない。
紙の上に戻ってこない場所が、また一つ増えた。
先日は身体だった。今度は口だ。ただし、誰の口かまでは戻ってこない。
帳面の三行は、紙の上で動かない。鉛筆の跡が、薄い斜めのまま乾いていた。
扉が開く。セレナが入ってきた。コートの肩に、宮廷の冷たい光がまだ薄く乗っている。
「宮廷では、まだ何も起きていない。でも、王太子の周りで、空気が一拍遅い」
「街は、もう、動いている」
セレナの目が、机の隅の三冊に一度だけ流れた。
「街と宮廷、両方?」
「両方」
セレナの指は、机を叩かない。代わりに、机の縁に薄く置かれた。
廊下の影と、広場の声と。
同じ手か、別の手か——それは、まだ分からない。
ペンを置いた。机の隅の、まだ何も書いていない一冊が、夕方の光の中で白く立っていた。
エドが帳面を、机の中央から少しずらして、隅に近づける。広場の三行が、最初の記録になる。鉛筆三本が、いつもの位置で揃った。
「お前の帳面が、紙の代わりになる」
「街の声、書けるっす」
短い返事だった。喉の奥の湯気の甘さは、もう薄くなっている。代わりに、広場の油の匂いが、まだ袖口に残っていた。
誰が、何のために——それも、まだ紙の上には戻ってこない。
線は、まだ引かない。
窓の外の光が、昨日の夕方よりまた少し低いように見えた。




