データにない毒
翌朝、エドが帳面と鉛筆を抱えて玄関に立った。表紙はまだ白い。
「鉛筆は、二本でいい」
「一本、折れたら困るので」
セレナがエドの肩の高さで、軽く頷く。
「気をつけて」
「行きます」
エドが出る。配達用の鞄ではない、平らな帳面の角が、肩のところで一度揺れた。
俺は事務所の机に向かう。エドの椅子が、いつもより少し前に出ていた。机の上に、王宮南翼の食堂周辺で取れる全部の記録を並べる。
午前、机の上に書類の山ができる。食材納入記録、食器棚の検査控え、薬湯の薬種記録、卓布の洗濯記録、香炉の灰の検査、配膳係と厨房人員の勤務表、毒見役の私物リスト。
内側でDBを開く。一つずつ、横断照合する。
食材は先月分から昨日分まで全件、毒物検出なし。食器は洗浄液から保管棚の塗料まで、検査済みで陰性だった。薬湯は薬師が今朝煮たもので、薬種は神殿納入の正規品、味見も済んでいる。卓布の石鹸・漂白剤・糊は、人体への害なし。香炉の灰と香木と油には、検査控えが残っている。配膳係の勤務歴・出身・紹介経路は前科なし、信用照会済み。毒見役の私物の薬や化粧水も、薬師が一通り確認していた。
紙の上に、薄い線が一本だけ伸びる。白だけが並ぶ線だった。
データに残るものは、全部、白だ。
白の中に、毒見役は確実に倒れた事実だけが、立っている。
俺は紙を一度、机の端に揃える。揃えるだけで、線は引かなかった。
夕方、エドが戻ってきた。帳面が、出立時よりも少しだけ膨らんでいる。
「ただいま戻りました」
「お疲れ」
セレナがコーヒーを淹れる。
エドが帳面を机に置く。最初のページを開いた。エドの不慣れな、斜めの線で、こう書かれていた。
昼前、配膳係が薬湯の盆を厨房から運び出した時、ミラ反射。
場所、厨房の入口。配膳係はミルセン、勤続十二年、老人。
盆の上、薬湯の壺、湯呑、匙、湯気。
ページをめくる。続きが書かれている。
夕方、裏門から食材が入った時、ミラ反射。
場所、裏門の前。運搬人は新顔、若い男、二日目。
荷、麦袋、根菜、塩、油壺、紙包み一つ。
エドの字は斜めだったが、行ごとに整っていた。
「これだけ書ければ、十分だ」
エドが少し顎を引く。
「ミラは、二度とも、半分の動きでした」
エドが配達用の鞄を二階に置きに行く。俺は帳面に、ペンの蓋を上に乗せて、机の中央に置いた。
エドが二階に上がる音が階段で鳴る。
俺は帳面と、昨日の食器棚の記録を、机の上に並べる。
反応した三点を、内側で並べる。
昨日は、食器棚の前で反応した。誰もいない場所。皿、椀、杯が、並んだままだった。
今日の昼前は、配膳係ミルセンが、薬湯の盆を運び出した瞬間だった。盆の上には、薬湯の壺、湯呑、匙、湯気が乗っていた。
今日の夕方は、裏門から、新顔の運搬人が食材を運び入れた時だった。荷は、麦袋、根菜、塩、油壺、紙包み一つで構成されていた。
共通点を探す。
人が動いている時、ではない。昨日は、誰もいなかった。
物が動いている時、これは三度とも合っている。
物が運ばれて、別の場所に置かれる直前か、置かれた直後に起きていた。
俺は紙の上に、三つの点を打つ。
線は引かない。
揃っていないものが、どこかで揃いかけている。
単独では何でもないものが、別の経路で運ばれて、近づく時に何かになる。
帳面の最後のページの、まだ白い余白に、ペンで小さい印を一つ落とす。エドの斜めの字とは逆向きの、短い線だった。
セレナがコーヒーを机に置いた。エドが二階から降りてくる足音は、軽い。
「明日、ミラが何度反応するか」
「分からない。多くなる、と思う」
セレナがカップを両手で包む。
「明日、ミルセンと、新顔の運搬人を、同じ時刻に同じ動線でもう一度通す」
「再現するの」
「ミラの身体が、もう一度同じ瞬間で動くかを見る」
エドが机の前に立つ。帳面を見て、すぐ目を逸らさない。
「明日も、書きます」
「頼む」
セレナの指が、机の上で一度止まる。叩かなかった。
帳面の表紙が、もう少しだけ膨らんで見えた。




