毒ではない毒
三日が経った朝、机の上の事件1と2のノートには、ペンの蓋が乗ったままだった。
点だけが増えて、線は引いていない。
階下からエドの声がした。
「使いの方が」
受け取った紙は、一行だった。『王太子付の毒見役が、昨夜倒れた。意識はある。食事から毒は出ていない』。バルクハルトの筆跡だった。
二度読んだ。三度目は読まなかった。
セレナが机の前に来て、紙を見る。
「毒は出ていない、ね」
「毒ではない、毒だ」
セレナの指は、机を叩かなかった。
俺はコートを取った。事件1と2のノートに、ペンの蓋を乗せ直すことはしなかった。
玄関先で、ミラがすでに剣帯を締めていた。バルクハルトの急使から、先に話を聞いていたらしい。
「ミラ、王太子付の護衛に入れ。バルクハルトが段取る」
「期間は」
「事件が動くまで」
セレナがミラの肩に手を置いた。
「行ってこい」
「行ってくる」
いつもの短い返事だった。
「俺も一度だけ、現場を見る。長居はしない。バルクハルトの段取りで」
「顔は短く」
「短く」
階段の上からエドが、配達用の鞄を抱えて降りてきた。
「俺も、行きます?」
「お前は、明日から。今日は俺とミラで様子を見る」
「分かりました」
ミラが先に出た。剣の鞘が腰で一度低く鳴った。
俺は続いた。事件1と2のノートは、机の上にそのまま残した。
王宮南翼の小食堂は、絨毯が厚くて靴音が吸い取られる。バルクハルトが扉の前で待っていた。
「短くやれ」
「短く」
卓は片付けられていた。残ったのは、卓布の薄い染み——湯気の跡だけだった。
隣室の長椅子で、毒見役が薄目を開けていた。三十代、痩せ気味で、息は浅いが整っている。手の甲に、軽い赤みがあった。
薬師の控えを受け取った。一行だった。『血流に微弱な変調。毒物検出なし』。食材・食器・薬湯、全て陰性、と末尾に小さく続いていた。
ミラを卓の前に立たせた。
「ここで、何か感じるか」
「何も」
二人で食器棚の前に移る。
ミラが、一歩手前で止まった。
「……今、一度だけ」
「剣か」
「違う。剣じゃない」
「人か」
「人もいない」
ミラの右手が剣の柄に近寄って、また離れた。半分の動きだった。
俺は食器棚を開けた。皿、椀、杯。並びは整っていた。
「何も、ない」
「何もない、けど、あった」
俺は内側で、見たものを順に並べる。皿の白、椀の縁の細い金線、杯の口の研ぎ跡。データには『食器:通常品、検査済み』としか書かれない。
書かれないものを、ミラの身体が一度だけ拾った。
王宮を出て、すぐの広場で、石壁の陰に立ち止まった。ミラは食堂に残してきた。
内側でDBを開く。【反射】の発動を、時系列で並べた。
三つの点が浮いた。
一つは、前に一度。事務所の方角に勝手に発動した夜。物理的な脅威はなかった。当時、分析不能と書いた。
二つ目、停戦交渉の使者を護衛した日。差し替え男を阻止した。俺の声に応えて動いた発動だった。
三つ目、今。食器棚の前で一度。剣も人も毒もない場所だ。
三点を結んでみた。線が一本だけ残った。
剣が届く前に、ミラの身体だけが拾うものがある。
前は、データに収まらないから脇に置いた。今は、その外に手を伸ばすしかない。
歩き出した。広場の昼の光が、石畳に薄く乗っている。南翼の窓を一度だけ振り返った。いつもより低く見えた。
夕方の事務所で、エドが二階から降りてきた。セレナは机に向かっていた。
「明日からエドを王宮に入れる。ミラの傍に」
エドが、配達用の鞄から手を離した。
「俺、何を」
「ミラの反射が反応した瞬間を、時刻と場所と、周りに何があったかを書き取れ。ミラは話せる。お前は書ける」
「分かりました」
セレナが、コーヒーを淹れる手を一度止めた。
「ミラの身体を、データに変えるのね」
「ミラが言葉にできないものを、言葉にしないまま、書き留める」
セレナの指が、机の上で一度止まった。叩かなかった。
「言葉にしない、ね」
「ミラが嫌がるなら、止める」
エドが二階から、書き取り用の薄い帳面を持って降りてきた。表紙には、まだ何も書かれていなかった。
夕方の光が、帳面の縁に低く伸びていた。




