看破
翌朝、執務室の扉を、もう一度叩いた。
バルクハルトはペンを置かなかった。報告書も開いていない。机の上には、昨日のままの紙が、昨日と同じ位置で重なっていた。俺が前に立っても、灰色の目はすぐには上がらなかった。
「答えます。条件があります」
バルクハルトの視線が、紙から俺の顔に移った。
「使い方を見せます。それで判断してください」
返事は、ない。
「この事件に必要な分だけお見せします。機能の全部は、今日は出しません」
返事は、まだ、ない。
「王太子殿下への上申は、あなたを通してください。私の同意がないところでは、上げないでいただきたい」
灰色の目が、一度だけ、まばたきの長さで動いた。
「いいだろう」
一言だった。ペンを置く動作も、紙の端を揃える動作も、今日はなかった。
「【データベース】、と呼んでいます」
机の上の石が、一つだけ取り除かれた気がした。だが、別の石が、別の場所に降ろされたのも分かった。
場所を、小尋問室に移した。
石壁の天井が低かった。窓は高く小さい。机が一つ、椅子が二つ。バルクハルトが俺の横に立った。
前日、「思い出せません」と答えた、三人目の衛兵が連れ戻された。前回より、具足の金具が二度鳴った。
「もう一度だけ、聞きます。詰所で、誰の声で命令が流れていたか」
「思い出せません。詰所で、命令が、流れていて……」
バルクハルトが、机の縁を、指で一度叩いた。
「嘘ではない」
頭の中で DB を開いた。詰所の前夜の出入り、当直交代の名簿、廊下を通った者、その時間帯に詰所付近にいた人間。検索結果の右端に、勤務外で立ち寄った者の名前が一つだけ残った。
「衛兵の朝、詰所に勤務外で立ち寄った者がいます」
「名前は」
「侍従長です。朝の見回りで、詰所の前を通っています」
衛兵を下がらせた。
俺は紙の上に、二つの○を並べて書いた。一つに「嘘ではない」、もう一つに「記録にもない」。二つを線で結ぶと、結び目の真ん中に、書かれていない第三の点が浮いた。
検索を広げた。
前日に聞いた他の証言者、書記課長、次席書記官、侍従長の補佐——その朝、それぞれの周辺に誰が通ったか。
検索結果が、同じ朝の同じ時間帯に収束していく。侍従長が、書記課に立ち寄り、侍従の控室を通り、衛兵詰所の前を歩いた。挨拶をして、天気の話をして、紙束を渡して、また通り過ぎた。立ち寄り自体は、何でもない。だがその経路の上で、後に「上から言われた」と思い出される命令が、薄く流れていた。
俺は紙を一枚書いて、バルクハルトに渡した。動線の図ではなく、時刻と場所の連続文で書いた一枚だった。
バルクハルトが、目を一度通した。
「呼べ」
衛兵が出ていって、しばらくして戻った。
侍従長が入ってきた。痩せた背、灰色の長い眉。手は震えていない。入室の所作に、迷いも警戒もなかった。普段の見回りと、同じ顔だった。
「先月十七件、今月九件——『王命に基づく動き』の、最初の声を発したのは、あなたですか」
侍従長は驚かなかった。怒りも見せなかった。少しだけ、首を傾けた。
「あれは、王のご意向にございます」
バルクハルトが、机の縁を、指で一度叩いた。
「嘘ではない」
頭の中で、もう一度 DB を走らせた。王の正式な勅命の記録、口頭命令の側近控え、執務日誌——該当する命令、なし。
「殿下の勅命の記録には、該当がございません。口頭でのご下命の側近控えにも、ありません」
侍従長が、一度ゆっくりと瞬きした。
「ご下命を、いただいてはおりません」
机の上で揃えられた両手の指は、動かなかった。
「私は、お預かりしたのでございます」
「お預かり、とは」
「三十年、王にお仕えしてまいりました。朝の咳の数、夜のため息の長さ、書架で開きかけて閉じられた本、執務机の上で一度動かされて元に戻された駒の位置」
声は細かった。だが、止まらなかった。
「それらから、王が『お考えになる前のご意向』をお読みし、必要なお手配を、先回りで通してまいりました。王が口にされる前にお仕えするのが、三十年、私の務めにございました」
頭の奥で、何かが組み変わる音がした。
嘘ではない。命令の偽造でもない。王は命じていない。だが、この男の中では、もう受け取ったことになっている。
俺は紙の上の「起点」の点を、もう一度、丸で囲み直した。
データに残らないのは、隠したからではなかった。最初から、誰もそれを命令だと思っていなかったからだ。王の意志を「読んだ」人間が一人いた。
バルクハルトが、ペンを置いた。今日初めての動作だった。
「下がってよい。今日は咎めない」
侍従長が一礼して、出ていった。靴音は、入ってきた時と同じ軽さだった。
二人だけの尋問室で、灰色の目が俺の方に向いた。
「処分は、お前が決める材料を出せ」
脳の奥で、ディートリヒの一行が、一度だけ動いた。
——いつか、お前自身がデータを歪める日が来る。
この男と、俺は、何が違うのか。
答えは、出さなかった。




