打診
朝の窓に、まだ昨夜の王都の光が残っている気がした。
光の粒が散らばっている。屋根の縁を一羽の雀が伝って、軒の陰に消えた。
扉が開いた。
セレナが入ってきた。髪を結い直した跡がある。机に近づいて、指を触れずに椅子を引いた。腰を下ろす。手はまだ膝の上だ。
「昨日、王に会って、何か変わった?」
声が静かだった。測る声だ。
「変わる気がする。まだ形はない」
「形ができたら教えて」
セレナの指が、机の端に触れた。触れただけで、叩かない。
下の扉が叩かれた。三回。間隔が揃っている。使いの打ち方だった。
◇
宮廷の使者は細い男だった。灰色の外套。袖口が擦れていない。新しい制服だ。胸に王太子家の徽章が縫い込まれている。
使者は封蝋入りの書状を両手で捧げ、机の上に置いた。封蝋の色が朱。蝋の縁が尖っている。急いで押された印だった。
「王太子殿下より、ラングフォード令嬢への婚姻意向の確認でございます」
定型の口上。読み上げるだけで、使者は目を伏せていた。
セレナは書状を一瞥した。
「聞いたわ」
それだけだった。
使者は一礼して、来た時と同じ角度で下がった。階段を下りる足音が遠ざかる。裏の通りで馬車の車輪が鳴った。去った。
書状は机の中央に残っている。封蝋はまだ破られていない。
◇
頭の中でデータベースを開いた。
過去20年の王国内貴族の婚姻打診——ギルド仲介役として目を通してきた記録が、時系列に並ぶ。89件。それぞれに五つの欄がある。
標準手順は決まっている。まず家門間で非公式に打診し、親族会で了承を取り、そこで初めて公式書状が送られる。返答期間が置かれ、その後に意向確認の使者が来る。
89件のうち、86件が五段階を順に踏んでいた。飛ばしは極めて稀だ。
本件は違う。
ラングフォード家には非公式打診がない。親族会もない。事前書状もない。返答期間の提示もない。いきなり使者だけが来た。
四段階飛ばしている。
89件を集計し直す。GROUP BY、手順の飛ばし数。四段階飛ばしは、20年で三件しかない。全て王家筋からの、強制的な再縁組の事例だ。
「三段階以上飛ばしているのは、二十年で三件だ」
声に出した。
「全部、王家筋からの強制的な再縁組」
セレナの指が、机を一度だけ叩いた。初めて、叩いた。
◇
セレナが封蝋を破った。爪で薄く剥がす。蝋の欠片が机に落ちた。
紙を広げる。俺は横から三点を読んだ。
封蝋の印影。侍従長の認証印が押されていない。王太子個人印のみ。通常の婚姻打診は侍従長の通過印が必須だ。省かれた。
紙質。王宮の抄紙工房で作られる A 級の厚紙だった。外交文書に使われる格だ。通常の婚姻打診は B 級で十分で、A 級が使われた記録は過去20年で二件しかない。
書体。
セレナが眉を寄せた。
「代筆者の癖がない」
「逆だ。こっちは癖が残っている。止めに揺らぎがある。ギルドに来た過去の王太子の署名書類と、角度が同じだ。代筆者の完璧な定型ではない。本人が書いた」
三点が揃った。
王太子本人が、自分で書き、自分の個人印で封じ、侍従長を通さず、A 級の紙で、急いで出した。
考えられる筋は三つだった。王太子自身の感情で、十年前の婚約破棄を取り戻そうとしている。王太子を動かす第三者がいて、背後から急がせている。あるいは、王太子本人にも見えていない第四者がいて、この婚姻打診そのものを別の目的に使おうとしている。
どれか一つに絞る材料は、まだない。
◇
セレナが席を立った。
「明日、宮廷に出向く。返答を公式化する場を作る」
「同行する」
「駄目」
短かった。
「フィクサーは表に出てはいけない。一人で行く」
俺は机の上の三つの仮説を見た。セレナに何を持たせるかで、明日の結果が変わる。
全部持たせれば、セレナは王太子の真意を測ろうとして、その場で判断を迫られる。持たせなすぎれば、何かが起きた時に現場で読めない。
どの仮説を、どの順で、どの深さで渡すか。
セレナが扉の前で振り返った。
「何を持たせるか、今夜決めて」
扉が閉まる音がした。足音が階段を下りていく。
机の上に、三つの仮説と、破られた封蝋の欠片が残っていた。
明日、セレナは一人で王宮に入る。
俺は一晩で、持たせる情報を選ばなければならない。




