夜会の裏
夜になってもセレナは戻らなかった。
俺はリストを机に並べたまま、ランプの油が減るのを気にしていた。南翼版12通の配布先。12人分の名前。家名だけ追うと、どこかで見た字面ばかりだ。何かが引っかかる。まだ名前がついていない何かが。
扉が開いたのは、ランプの芯を一度直した後だった。
外套の裾から夜気が入ってきた。セレナが閾を越えて部屋に入る。磨かれた石床の匂いと、白檀に似た香油の香り。宮廷の空気を服の端に連れて帰ってきている。それは昼間の出仕の時と同じだったが、今夜は何か薄くなっていた。顔の筋肉が落ちている。疲れ、というより、何かを抑えながら帰ってきた顔だ。
「遅かったな」
セレナは答えなかった。外套を壁の掛け金に下げて、それから俺の横の椅子に腰を下ろした。机の上のリストに視線を落とした。すぐには何も言わなかった。部屋の中の火が、二つのランプの炎だけになった。
「宮廷の空気、覚えてるわ」
呟くように言った。「みんな知っている顔をして、何も知らないふりをしている。あの頃と変わらない」
そこで止まった。説明しなかった。「あの頃」が何を指すかも言わなかった。俺も訊かなかった。十年前、まだ幼かったセレナが宮廷に出入りしていた頃のことだと分かったが、それを口にする必要はなかった。
◇
12人のリストを一緒に見た。
俺はDBに配布先の名前を並べ、政治的立場を引いた。王都で一定の地位を持つ人間には、今の政局に対してどちら寄りかという記録がある。断片的なものを繋ぎ合わせると、粗い輪郭ができる。
12人を眺めていると、共通点が浮いた。
「8人が中立だ」
今の政局で、王太子派にも王弟派にも態度を明確にしていない人間が8人いる。残り4人は所属を持つが、いずれも主要人物ではない。席を埋めるために混ぜたような顔ぶれだった。
「東翼のリストを引く」
東翼版の24通の配布先と照合した。王太子派の重鎮が三人、王弟派の中核が二人。両派から集まっている。
「東翼には王太子派と王弟派の主要人物が揃う」
俺は声に出した。「南翼に中立派だけが集まる。これは偶然じゃない」
セレナが机の上のリストを指で示した。「会わせたくない組み合わせがある、ということ」
「ああ」
「つまり」セレナが続けた。「中立派に王太子派の主張を直接聞かせたくない人がいる。席が分かれていれば、中立派は両方の話を直接聞かない。今の曖昧な立場が維持される」
声は静かだった。疲れているはずなのに、宮廷で見てきた空気がそのまま目の奥に残っていた。
◇
設計者を追った。
配布順序を操作できる人間を絞る。庶務課は起点だが、庶務課の担当が自分の判断で招待状の分類を変えるとは考えにくい。上から指示があったはずだ。口頭で。
庶務課の上に立つのは侍従長だ。
名前は浮かんだ。だが確証はない。指示を出したとしても、記録には残らない。口頭で「南翼と東翼を分けよ」と言えば済む。DBには痕跡がない。
「侍従長が噛んでいる可能性は高い」
「でも証拠は?」
「ない」
セレナが小さく息を吐いた。
「犯罪じゃない」俺は言った。「犯罪なら証拠を探せばいい。これは調整だ。誰かが宮廷の席順を、招待状の宛先で操作している。法を犯さず、記録にも残さず、結果だけを作る」
「それって——」
セレナが止まった。
◇
「ああ」
俺は先に言った。「俺がやっていることと同じだ」
一拍あった。
誰に何を見せるかを選ぶ。誰と誰を会わせるかを決める。情報の出し方を設計して、結果が自分の望む形になるよう組む。証拠に嘘はない。ただ、順序と相手を自分が選ぶ。
バルクハルトへの証拠の出し方も、セレナへの話の順番も、全部そうだった。
セレナの指が机の上で止まっていた。いつもなら思考のリズムで叩いている指が、今は動かない。
「あなたとの違いは?」
穏やかな声だった。責めていない。ただ問うている。
俺は答えられなかった。
反論の形は浮かんだ。守るためだ、と。
だが、その言葉は途中で止まった。以前も同じところで止まったことがある。あの夜、ディートリヒの封書を読んだ時と同じだった。
セレナが俺の顔を見ていた。答えを急いでいない。ただ待っている。
俺は結局、何も言わなかった。
ランプの炎が揺れた。窓の外で風が鳴った。短く、すぐに止んだ。
ランプの火がもう一度だけ揺れた。
犯人はいない。設計者がいる。
そして、その違いを今の俺はまだ言葉にできない。




