新しい地図
ディートリヒの拘束から数日が経った。
バルクハルトがやってきたのは昼過ぎだった。特に前置きはなかった。椅子に座ることもなく、扉の近くに立ったまま、短く告げた。
「王弟派が動けなくなった。東方辺境伯が王太子方についた。公式発表はまだだが、もう覆らない」
俺は帳簿を閉じた。
「南方戦線の停戦交渉が始まる。ミラが止めた親書の件が引き金になった。王国全体が、戦争を終わらせる方向に動いている」
ただ頷いた。帳簿の角を指で揃えた。大きい流れはもう動き始めていて、押し戻せる段階は過ぎていた。
バルクハルトが少し間を置いた。
「停戦交渉の裏方に、お前の力が要る」
「分かりました」
「だが表には出すな。お前は商人だ」
「承知しています」
それだけだった。バルクハルトは頷いて、扉を開けた。振り返らなかった。靴音が廊下を遠ざかって、外の扉が閉まる音がした。
俺は窓の外を見た。曇り空だった。通りを行く荷車はいつも通りで、誰も地図が変わった顔をしていない。
八百屋が声を張っていた。魚を積んだ荷台が石畳の水を跳ねた。政局が動いても、街は同じ音で昼を進めていく。
◇
セレナが書簡を受け取ったのは、その日の夕方だった。
俺は事務所の隅で書き物をしていた。使者が来て、セレナの名を呼んだ。封蝋に見覚えがあった。王家の紋ではない。それよりも古い、貴族会議の印章だった。
セレナが受け取った。使者はすぐに去った。
静かな部屋に、紙を開く音だけがする。
しばらく、セレナは何も言わなかった。俺は筆を止めた。声はかけなかった。
「……レイン」
振り返った。
セレナが俺を見ている。笑っている。笑っているのに、泣きそうな顔だった。
「ラングフォード侯爵家の嫡子として、宮廷への出入りを許可する——って、書いてある」
書簡を持つ手の指が、微かに震えていた。
「私、泣かないわよ」
「誰も泣けとは言ってない」
セレナが息を吐いた。短く、深く。書簡を一度胸に押し当てて、それから机の上に置いた。慎重に、両手で、平らに。まるで割れ物を扱うように。
指がまだ震えていた。
銀色の髪が夕陽の角度で少し赤く染まっている。書簡を押さえる指先だけが白い。笑顔はそのままで、目元だけが少し危うかった。
俺は何も言わなかった。机の木目と、書簡の白さと、震えている指だけを見ていた。
「宮廷か」
思わず声が出た。
「そう」セレナは書簡から目を離さなかった。「行きたいわけじゃない。でも、入れるかどうかと、入れないかどうかは、違う」
俺は頷いた。セレナはその頷きも見ていなかった。
窓の外が少し明るくなっていた。雲の切れ目から、夕陽が細く差し込んでいる。書簡の白い紙が、その光を受けて光った。
部屋の中で、その白さだけが少し浮いて見えた。
封蝋の匂いが、まだ紙に残っていた。
セレナはしばらく書簡を見ていた。指の震えが、少しずつ収まっていった。
◇
ミラが戻ったのは夕刻だった。
扉を開けたところで止まった。セレナが机の前に立っているのが見えたのだろう。書簡もそのままにしてあった。セレナは振り返らなかった。俺は書き物を続けていた。ミラだと分かったが、声をかけなかった。
ミラは入ってこなかった。扉の外に立ったまま、少しの間、何かを見ていた。背中が硬い。いつもそうだ。外套に旅埃がついている。どこかに行っていたらしい。だが今日は——どこか、違った。少し柔らかかった。
それからミラは踵を返した。階段に向かった。
廊下を三歩ほど歩いたところで、足が止まった。
「……よかったな」
小さかった。聞こえるかどうかの声だった。
セレナは振り返らなかった。聞こえていたかどうかも分からない。
ミラは何も付け加えなかった。そのまま階段を上がっていった。足音が、天井の向こうに消えた。
事務所に静けさが戻った。
書簡は机の上にある。窓の外は暗くなりはじめている。表向き、ここはいつもの事務所だった。
地図が変わった。
書簡のどこにも、俺の名前はない。
明日になればまた帳簿を開く。看板も机も、何も変わらない顔でそこにある。




