模写の終わり
全員が引き上げた後も、地図は広げたままにしていた。
書状ルートの線、神殿の書記室から城外への荷運び経路、ディートリヒが使ったと思われる連絡中継の点。三つの流れが一つの場所に収束している。南区のはずれにある倉庫だ。昨日から人の動きが増えている。荷の量に対して人数が多い。それが答えだった。
バルクハルトに場所を告げた。
「このあたりだ」
地図の一点を指さした。バルクハルトは地図を覗き込んだ。長くは見なかった。一度で覚える目をしている。
「動いてくれ」
「捕縛の権限は持っている。問題ない」
「俺は商人だ。逮捕は権力の仕事だ」
バルクハルトは短く頷いた。椅子を引いて立ち上がる。鎧はつけていない。平服のまま外套を羽織っただけだ。扉に向かいかけて、一度振り返った。俺は地図を見たままにした。
扉が閉まる音がした。
◇
セレナが茶を運んできたのは、それからしばらく経ってからだった。
窓の外はもう暗い。石畳を踏む足音が遠くから聞こえて、すぐ消えた。事務所の中は静かだった。机の上には地図と、ミラが回収した偽造の親書が並んでいる。封蝋の剥がし跡が残っていた。
「行かなくてよかったの?」
「俺が行く必要はない」
セレナは何も言わなかった。茶の杯を机の隅に置いて、窓のそばに立った。外を見ている。背中だけが見える。指は組んでいない。腕は体の横に下りている。
茶の香りが少し漂った。
湯気が細く立って、すぐにほどけた。口をつけなかった。冷めていく速さだけが分かった。
俺は地図の線を一本ずつ辿り直した。見落としがないか確認するためではなく、手を動かすために。外の動きは想像の中にしかない。そこに余計なものを加えないようにするため、視線を地図に固定しておいた。想像が先走れば、バルクハルトの報告に色がつく。今は白紙のまま待つ方がいい。
炭が爆ぜた。セレナは振り返らなかった。
俺も顔を上げなかった。
◇
夜半を過ぎた頃、扉が開いた。
バルクハルトだった。外套に埃がついていた。それだけだった。怪我はない。表情も変わっていない。報告のために戻る顔をしていた。
「予測通りだった。拘束した」
「負傷者は」
「いない」
「何人だ」
「六人。倉庫に証拠の書状もあった。書記長の花押が確認できるものが三通」
「ディートリヒは」
「いた」
短い答えだった。俺はそれ以上聞かなかった。拘束の現場も、ディートリヒの顔も、今知る必要はない。事実の確認は終わった。
バルクハルトが外套の前を整えた。帰り際の動作だった。だがそこで止まった。
「一つ、伝言がある」
俺は顔を上げた。
「ディートリヒが言っていた。『あの小僧に伝えろ。お前の情報が正しいのは、まだ誰も汚染していないからだ。いつか、お前自身がデータを歪める日が来る』」
部屋が静かだった。
窓のそばにいたセレナの背が、ほんのわずかに固まった。
バルクハルトは待たなかった。伝えるべきことを伝えた、という顔で扉の方に向いた。外套の裾が揺れた。扉が閉まった。
その音だけが、倉庫の埃と夜気を部屋の中に置いていった気がした。
俺はしばらく地図を見ていた。
予言か、呪いか。
どちらでもいい。どちらでもある。
データベースに格納した。消さないために。
◇
バルクハルトが去ってから、部屋の空気が少し変わった。
セレナが振り返った。窓を背にして俺を見ている。銀色の髪が夜の光の中に浮いていた。
「終わったわね」
「終わっていない。ディートリヒは倒せた。だが王弟派はまだいる。次の手を打つ人間が出る」
セレナは少し間を置いた。何かを言おうとして、選んでいる様子だった。
「でも今夜くらいは——」
言い切らなかった。
セレナの目が机の上に落ちた。偽造の親書が端に置かれている。精巧な印璽、丁寧に模された署名。本物の隣に置かなければ区別がつかない水準だった。
その隣に、本物はない。
セレナの指は机を叩かなかった。
茶の杯が机の隅にある。縁はもう冷えていた。
模写は終わった。
だが、格納した言葉までは消えない。




