収束
使者が立ち去る足音が、廊下の向こうに消えた。
机の上に置かれた書簡を見た。バルクハルトの印璽。王が直々にディートリヒへの調査を命じた。レプリカ五つのうち三つが王の手に届いた。もう隠れようがない。
逃げるか。最後に何かをやるか。
選択肢は二つだ、と頭の中で置いた。紙を机の上に戻した。蝋燭の炎が揺れて、書面の文字に影が差した。静かだった。足音が完全に消えた後の静けさが、部屋の空気を少し変えた気がした。
窓から入った昼の光が机の端だけを照らしていた。赤い印璽だけが、妙に鮮やかに見えた。
◇
ディートリヒの行動全履歴をEXPLAINで引いた。
経路ではなく目的を軸に並べる。情報の流れ方、タイミング、何を選んで何を捨てたか。記録に残っているもの、推測で埋めたもの、クレアが確認したもの。全部を並べると、分岐が広がりすぎた。
逃亡は三パターン出た。残留して工作するなら二パターン。可能性を置くたびに、枝が増えた。
最適経路が返ってこない。
答えがないのではなく、多すぎる。それが初めて、少しだけ怖かった。
何が足りないのかを考えた。情報の欠落を探した。だが欠けているのではなかった。ある。十分にある。むしろ多い。条件が多すぎて、重みが分散している。正確な答えが並びすぎて、一本に絞れない。
頭の中で広がったまま、詰まった。
今までにはない詰まり方だった。実行計画が出ないのではなく、出すぎて戻ってこない。同じ場所でぐるぐると回っている。蝋燭の炎が一度大きく揺れた。風でも入ったか。炎が元に戻った。俺は動かなかった。
◇
行動を追うのをやめた。
意識してやめたわけではない。追えなくなって、ただ止まっていた。ディートリヒの行動の一つ一つを、もう追おうとしていなかった。ただ全体を置いたまま、見ていた。
変化は静かに来た。
個々の行動ではなく、行動と行動の間が見えてきた。選択と選択が繋がっている。繋がりの先に、次の選択が来る。それがさらに別の選択へ続く。因果の網目が広がっていく。
網目は収束していた。
一点に向かっていた。ディートリヒが動くたびに、選択が広がるのではなく、絞られていく。あいつの方法論が一点に向かっている。証拠を壊すのではない。信頼を壊す。情報そのものより、情報の信頼性を狙ってきた。最後にやるとしたら——
頭の奥で何かが収束した。
痛みではなかった。圧だった。頭の芯から来る。知識が入ってくるときとも違う。外から押し込まれるのではなく、頭蓋の内側を中から締め上げられる感覚だった。視野が狭まった。机の木目が見えた。その木目がはっきりと、近くて遠かった。
手が机を掴む。
指が机の端に引っかかる。手の甲の血管が浮き出ている。歯を食いしばっているかどうか分からない。音がない。耳の奥が深く静かで、脈も聞こえない。
気がつくと突っ伏していた。
額に木の硬さが当たっている。冷たい。呼吸がどこかに行っていた。
肩に何かが触れた。
指だった。細い指が、肩の骨の近くに置かれた。動かない。ただ置かれている。
セレナの声が遠くから来た。名前を呼んでいた。
返せなかった。頭の芯がまだ締まっていた。数秒か、それ以上か、時間の感覚がなかった。圧が少しずつ解けていった。呼吸が戻った。肩の指の重さが近くなった。
◇
起き上がった。
炎が揺れた。目の焦点が机の書簡に落ちた。さっきと同じ文字が並んでいる。だが見え方が違った。書簡の向こうに、もう一枚の景色が重なっている。
「ディートリヒは逃げない」
声が出た。乾いていた。
「最後に大きな偽造をやる。対象は——停戦交渉の親書だ」
「根拠は」
セレナの声が背後から来た。
「パターンが収束した」
間があった。炎が小さく揺れた。
セレナは何も言わなかった。俺も続きを足さなかった。
蝋燭の火を見た。
確率は7割だ。3割は外れる。だが7割で動けるかどうか、それがこれから詰めるべきことだった。
7割という数字だけが、まだ机の上に残っていた。
足音がしなかった。セレナの指がまだ肩の近くにある気がしたが、確かめなかった。炎が揺れて、机の上の影が伸びた。




