いてほしい
蝋燭が一本だけ灯っている。
書類は三束。ディートリヒの接触経路、排除後の名誉回復の手順、証言取得の順序。全部一度は読んだ。だが手順を頭に入れ直す必要があった。実行前には必ず全体を通す。それが俺のやり方だ。
セレナが向かいにいた。帳簿を閉じて、こちらの書類に目を通している。ペンを持っているが、書いていない。二人の間に蝋燭が一本。インクの匂いがした。紙をめくる音は俺の側だけだ。
セレナの指は机の上に置かれている。叩かない。普段なら、考えているとき必ずあの規則的なリズムがある。だが昨日の夜から、ずっとそのままだ。
静かだった。外の通りも、二階も、どこも音がない。蝋燭の芯が微かにはぜる音だけが、二人の間にあった。何かが変わってしまったか、あるいは何かが変わる前の、空気が止まっているような夜だった。
◇
「三拠点作戦の前の夜、覚えてる?」
唐突だった。帳簿でも書類でもない話し方だった。
「覚えている」
深夜の事務所。蝋燭一本。髪を下ろしたセレナが机の向かいに座っていた。あの青い目が揺れる炎を映して、こちらをまっすぐ見ていた。室内着の上に外套だけを羽織っていた。銀髪が肩から背中に流れていた。ミラが階段を下りてくる前の、あの数秒。
分析しようとした。なぜ今その話をするのか、何を引き出したいのか。今夜この問いかけが来た理由を探した。昨日何があった。指が動かなくなった。俺の指が触れた。セレナが手を引かなかった。それだけだ。それだけのことが、今夜のこの問いの原因か。
処理経路を辿ろうとした。何も返ってこなかった。実行計画が出ない。
「あのとき、あなた何を言おうとしたの」
セレナの声は低い。書類を見たまま言っている。だが目は文字を追っていない。
「いないと困る、と言った」
「そうね」
短い間があった。炎が小さく揺れた。
「その続きは?」
俺は書類に目を落とした。文字が並んでいる。証言の順序、配置の手順。見慣れた字だ。
また分析しようとした。この状況で何を返すべきか。どの順序で、何から言えば正確に伝わるか。計算を始めようとした。始まらなかった。何を計算しようとしていたのかも、すぐに分からなくなった。
「……いてほしい」
声が出た。低かった。説明がなかった。言い訳もなかった。計算の結果ではなかった。計算が止まった先に、最初からそれだけがあった。
セレナが動いた。
指が机の上をわずかに滑って、俺の手の上で止まった。
触れている。動かない。
外で風が鳴った。夜の深いところにある音だ。蝋燭の炎が傾いて、机の上の影が長くなる。俺の手は動かなかった。指先に重さを感じた。紙の重さでも書類の厚みでもない。
沈黙が続いた。何秒か、何十秒か、分からなかった。
「馬鹿ね」
セレナの声が小さかった。湿っていた。笑っている。大きくではない。口元だけ、かすかに緩んでいる。
「半年遅いわ」
返す言葉がなかった。その通りだった。異論の余地がなかった。半年前に言えていたら、と考えて、いや半年前には言えなかったと気づいた。あのときの俺には、まだこの言葉がなかった。
距離が縮まった。明確に何かが起きたわけではない。ただ、縮まった。今度は誰も降りてこなかった。足音も声もなかった。階段はきしまなかった。
炎だけが揺れていた。
セレナの指は、俺の手の上に置かれたまま動かなかった。机の上には書類がある。今日詰めるべき計画の残りが並んでいる。それは分かっていた。分かっていたが、今は書類の文字よりも、指先に残っている重さの方がはっきりしていた。
◇
翌朝、エドが扉を開けて入ってきた。荷物袋を肩に下げたまま、二歩で足が止まった。
「なんか空気変わってないっすか」
「気のせいだ」
書類を広げた。昨日の続きだ。
セレナは窓際の椅子に座っていた。帳簿を開いている。こちらを見ない。
エドが俺を見て、セレナを見て、また俺を見た。口が開きかけた。
セレナの指が一回だけ、軽く机を叩いた。
エドが黙った。
「……気のせいっすね」
荷物袋を机に置いて、帳簿を取り出した。
机の上には、今日詰めるべき手順が並んでいる。ディートリヒとの戦いは何も終わっていない。変わったのは関係だけだ。




