複製
封書を開けた手が、止まった。
紙が一枚。ギルドの書式を模した帳票だった。穀物の流通記録。取引量、価格、時期——俺がギルドで分析した、東方辺境伯領への穀物取引の偏りを示すデータだった。
だが、数字が違う。
俺が出した数字ではない。偏りを示す部分が削られ、正常な取引に見えるよう差し替えられている。俺の分析結果を、俺の名前のまま歪めて流通させる。それがこの三通目の意図だった。
紙が皺になっていた。気づいたら握りすぎていた。指先が白い。力を抜いたが、皺は戻らない。
俺のデータを汚染して撒く。
改竄されたデータが流通すれば、俺の信用が崩れる。「レインの分析は信頼できない」という評判が広まれば、バルクハルトへの報告も、今まで積み上げてきた情報の網も、ひとつずつ効力を失う。ディートリヒは武器を使わない。正確に、俺の根拠を腐らせようとしている。
怒りが胸の奥に落ちた。熱くない。静かに、重く沈む。
◇
一箇所にしかないデータは、改竄されたら検証できない。
その思考が、自然に次へ続いた。同じデータを複数の場所に置けば、一箇所が汚染されても、他の場所と照合して嘘を炙り出せる。元の正しい状態を証明できる。情報を守るのは、暗号でも壁でもなく、同じものを別の場所に用意しておくことだ。
概念が流れ込んできた。
今までのスキル解放と、速度が違った。圧力をかけたように、中から押し開かれる感覚だった。額に汗が滲む。耳の奥で脈が鳴っている。速い。視界の端が白く明滅した。
【レプリケーション】。
名前が浮かんだ瞬間、身体の奥が軋んだ。初めてだった。スキルが広がる速さに、身体が追いついていない。
息を吐いた。手が震えている。椅子の背に背中を押しつけて、脈が落ち着くのを待った。汗が首筋を伝う。さっきまでなかった知識が、頭の中に並んでいた。
◇
扉が開く音がした。
クレアだった。薄い金髪の三つ編みが乱れている。いつも通り、紙束を抱えている。事務所への定期的な記録保全作業だ。彼女が入ってくるのは週に三度。今日はその日だった。
「失礼します——」
立ち止まった。
俺の顔を見て、一歩の途中で止まった。眼鏡の奥の目が、状況を読んでいる。クレアは三百以上のスキルを記憶している。見ているだけで情報を処理する人間だ。
「何が来たんですか」
問いではなく確認だった。
机の上の封書を見て、俺の顔を見て、もう答えを持っている。俺が黙っていると、彼女はゆっくり椅子を引いて、向かいに座った。
「三通目です」
「改竄データの拡散、ですね」
クレアは【写本】で帳簿の改竄を見抜いてきた。俺のスキルが収納ではないことも、とうに見抜いている。だが正式な名前は教えていなかった。
壁が薄くなっている。セレナにそう言われた。ならば、もう一枚減らすのに躊躇う理由はない。
「俺のスキルは【データベース】だ」
クレアの眼鏡の奥が、一瞬だけ見開かれた。すぐに戻る。
「やはり、そうでしたか」
驚きより納得の声だった。俺は続けた。
「さっき新しい機能が解放された。【レプリケーション】。同じデータの複製を、別の場所にも持てる」
クレアが少し間を置いた。
「私がバックアップになるということですね」
淡々とした声だった。だが目が動かない。動かないまま、俺を見ている。クレアの【写本】は完璧な複製を作れる。俺の外に置く原本——それが意味することを、クレアは俺より先に理解していた。
「嫌なら断っていい」
クレアは少し首を傾けた。
「嫌ではありません」
「……理由を聞く前に答えたな」
「理由を聞いたら、断れなくなる気がしたので」
それ以上の説明はなかった。
クレアが抱えていた紙束を膝の上に置いた。いつものように、仕事を始める準備だった。俺はその動作を見ながら、次の言葉を待った。
「でも——」
クレアが紙束を見たまま、言った。
「私の容量には、限界があります」
沈黙が落ちた。
俺のデータを保持するために、クレアは自分の中にある何かを手放す。記憶だ。読んだ本の一節、誰かの声、ある朝の光——クレアがこれまで写し取ってきたものの中から、何かが消える。
その空いた場所を、俺の帳簿が埋める。
何を消すのか。聞けなかった。聞いたら、頼めなくなる。クレアも答えなかった。答えないことが、すでに答えだった。




