古参の意地
翌朝、エドが事務所に来た。
いつもなら「おはようっす」と言いながら扉を開ける。今日は扉を開けてから、一拍置いて言った。
「レインさん」
冗談が入らない。声のトーンが低く、エドが真面目なときにだけ出す声だった。
「俺、十年一緒にいるのに、最近のレインさん、俺には何も話さないっすよね」
帳簿から顔を上げた。エドの目を見た。屈託のない丸い目だ。だが今日は、その目の奥が動いていない。荷物袋を肩から下ろしていない。すぐに出ていけるようにしたまま、ここに立っている。
「話すことがないだけだ」
「嘘っすね」
即答で、笑っていなかった。そのまま続けた。
「セレナさんには話してる。クレアさんにも。帳簿閉じて別の部屋に行くとき、声のトーンが変わるの、俺には分かるっすよ。十年ですから」
十年。その言葉が重い。エドはスキルの真実を知らない。知る必要がないと俺が判断した。区画の外に置いた。だがエドは外に置かれたことに気づいている。気づいていて、今日まで黙っていた。
「俺が信用できないんじゃなくて、俺を巻き込みたくないんでしょ」
俺の答えを待たずに、エドが続けた。
「それは分かってるっす。レインさんがそういう人だってのは、十年見てりゃ分かる」
エドの目がまっすぐだった。
「でも、巻き込まれたいかどうかは俺が決めることっすよ」
言い切った。声が震えていない。怒っていない。十年かけて溜めた言葉を、今ここで出している。
俺は何も言えなかった。合理的な反論はある。お前を守るためだ、知らない方が安全だと並べることはできる。だがそのどれも、エドの目の前では嘘になる。守るためではなく、俺が一人で線を引いたのだ。
「……すまない」
エドが一瞬、目を見開いた。レインが謝ることを想定していなかったらしい。
「全部は話せない。それは変わらない。だが、お前に話さなすぎた」
エドが黙った。三秒。それから、いつもの笑顔が戻った。今度は口角が深い。
「じゃ、少しずつでいいっすよ」
そう言って、配達の荷物を肩に担いだ。肩の力は抜けていたが、背中はまだ少しだけ硬い。「行ってくるっす」。扉が閉まった。軽い足音が石畳の上を遠ざかっていく。謝るのが、十年遅かった気がした。
◇
昼過ぎ、市場に用があって外に出た。
大通りの向こうで、エドが走っていた。屋根の端から端へ跳ぶ。軽身スキルだ。荷物を背負ったまま、三階建ての屋根を軽々と渡っている。着地が静かだ。瓦を一枚も鳴らさない。飛ぶたびに、荷の紐だけが背中で遅れて揺れた。
得意先の前で降りた。笑顔で挨拶している。店主が手を振っている。十年間、こうやって商会の足元を走り回っていた。配達、連絡、市場の声拾い。表の仕事を全部引き受けて、文句を言わなかった。俺の帳簿に載る前の情報を、エドはずっと足で拾っていた。八百屋の婆さんには荷を先に下ろし、薬種問屋には扉を叩く前に名を呼ぶ。相手ごとの間合いを、体で覚えている。
俺は市場の角から見ていた。エドが次の得意先に向かって走り出す。屋根を跳ぶ姿が、午後の光の中で一瞬だけ浮いた。
全てを話す必要はない。だが壁の幅は変えられる。
◇
夕方、事務所に戻って商業区画の設定を見直した。エドに渡す情報の範囲を広げた。仕入れと配送だけでなく、取引先の信用評価と市場の動向分析も含める。あいつが市場で拾ってくる値段の揺れや店主の機嫌が、どこで俺の判断に繋がるのかも見せる。政治やディートリヒの件は渡さない。だが市場の声が、俺の分析に入る入り口までは隠さない。
エドが帰ってきた。荷物を下ろして、俺の机の上に新しい帳簿が積まれているのを見た。
「なんか急に仕事増えたんすけど」
帳簿をめくったエドの目が、少しだけ丸くなった。仕入れ先ごとの信用度と、注意する値動きが並んでいる。
指先で表の端をなぞって、次の頁をめくった。読む速さが少しだけ落ちている。
「信頼の証だ」
「給料上げてくださいよ」
笑った。今度はこちらも笑えた。朝よりは、少しましな顔で。冗談が戻っただけで、部屋の空気が少し軽くなる。
全てを話さなくても、信頼を示す方法はある。区画は壁ではない。幅を変えられる仕切りだ。




