写本の限界
ディートリヒの十年分の活動を追う作業は、四日目に入っていた。
神殿の記録室。クレアと並んで机に向かっている。俺が経路図でディートリヒ周辺の人物の動きを辿り、クレアが神殿の文書から裏付けとなる記録を抜き出す。書記官の異動、税収承認者の変遷、軍令の伝達経路。断片を突き合わせると、ディートリヒの影が十年前から薄く、だが確実に動いていたことが浮かぶ。
クレアの手は速かった。棚から文書を引き、目を通し、白紙の紙に写し取る。写本のスキルだ。見たものを完璧に再現する。一字の狂いもない。三日間で百枚以上の文書を処理している。だが写し終えた紙の端を揃える指が、時々同じ場所を二度なぞるようになっていた。
四日目の午前。クレアの手が止まった。
「少し、待ってください」
声が小さかった。額に汗が浮かんでいる。眼鏡を外して、手の甲で額を拭いた。眼鏡を外したクレアの目は、いつもより大きく見える。焦点が定まっていない。
「どうした」
「容量が、足りなくなってきました」
容量。
その言葉の意味を、俺はすぐに理解した。クレアの写本は、見たものを完璧に記憶する。だが記憶には上限がある。新しい文書を取り込むためには、古い記憶を薄くしなければならない。写すたびに、何かを自分の中へ押し込んでいたのだ。その負荷を、俺は今まで作業量としてしか見ていなかった。
「何を消すんだ」
クレアが眼鏡をかけ直した。レンズの奥の目が、俺をまっすぐ見た。言いにくいことほど、先に目を合わせる。
「選べます。どの記憶を薄くするか、自分で選べます」
一拍。
「でも、消した記憶は二度と戻りません」
クレアの声は淡々としていた。事実を述べている。だが眼鏡を外したとき、指が少し震えていた。
「何を消そうとしている」
「古いものです。幼い頃の記憶。父の声とか、家族で夕食を囲んだときの風景とか」
声が揺れなかった。揺れないように言っている。
「スキルの発現記録や神殿の文書は残します。仕事に使うものは消せません。だから消せるのは、仕事に関係ない記憶だけです」
仕事に関係ない記憶。父親の声や、夕食の風景。そういうものを「関係ない」と分類して、消す。
俺の中で、何かが引っかかった。
「やめろ」
声が大きくなった。自分でも驚いた。高い天井に跳ね返って、記録室の棚の間に消えた。
クレアが目を見開いた。
「別の方法を考える。文書の量を減らすか、作業を分割するか。お前の記憶を消す必要はない」
クレアが少し間を置いた。それから、穏やかに言った。
「いいんです」
眼鏡の奥の目が、静かだった。諦めた静けさじゃない。自分を納得させるときの静けさだ。
「データベースにとって、古いバックアップを消すのは普通のことでしょう?」
息が止まった。
この子は、俺のスキルの名前を昨日知った。そして今日、その概念で自分の記憶を切り捨てようとしている。古いバックアップ。使わなくなったデータ。容量が足りなければ削除する。DBの運用としては正しい。正しすぎるから、余計に悪い。
だがクレアはデータじゃない。
「お前はデータじゃない」
言った。声が硬かった。
クレアが俺を見た。眼鏡の奥の目が、一瞬だけ揺れた。
「……分かっています」
小さな声だった。分かっている。分かっていて、それでも消そうとしていた。俺がスキルの名前を渡したから、その概念で自分を削ろうとしている。
俺はクレアから文書の束を取り上げた。紙の角が指に食い込んだ。
「今日はここまでだ。残りは俺が処理する」
クレアは何か言いかけて、口を閉じた。眼鏡を直す仕草が、いつもより遅かった。抗わないのが、余計につらい。
記録を完璧に残せるスキルは、記憶を完璧に消せるスキルでもある。紙の上では利点でも、人間に向けば刃になる。クレアが失おうとしていたのは、父の声だ。家族で囲んだ夕食の風景だ。データベースの容量管理と同じ論理で、そういうものを消そうとしていた。
俺がクレアにスキルの名前を教えた。その概念が、クレアの中で刃になった。助けになるはずの名前が、削るための理屈として先に使われた。
これが、知らせることの代償なのか。




