区画
情報仲介役の業務が軌道に乗り始めて、一週間が経った。
朝、ギルドの記録室で取引台帳を確認する。昼、商会に戻って仕入れと配送の手配をする。午後、バルクハルトへの報告書をまとめる。夕方、セレナとその日の取引情報を整理する。夜、ディートリヒの動きを追うための経路図を引く。
全部、俺一人でやっている。
目が乾く。首の後ろが硬い。机の前に座った姿勢のまま、蝋燭が二本減っている。帳簿の文字が揺れて見える。瞬きが増えている。
「レイン」
セレナの声がした。帳簿を閉じる音。椅子を引く音。靴音が近づいてきた。
「あなたが倒れたら、アルク商会は止まる」
俺の前に立った。腕を組んでいる。指が叩かない。事実を述べている。
「分散しなさい」
分散。
その言葉が引っかかった。セレナは商会の運営として言っている。だが俺の頭の中では、別のことが起きた。
データが重い。ギルドの取引記録、政治の動き、ディートリヒの追跡、商会の帳簿。全てが一つの場所に積み上がっている。どの情報を引くにも、残り全てを横切らなければならない。商業データを見たいだけなのに、政治情報が手前を塞いでいる。
分ければいい。
だが分けるということは、線を引くということだ。線の内側と外側ができる。外側の人間には、中が見えなくなる。
指が止まった。エドの顔が浮かんだ。十年間、同じ事務所にいた。
それでも、分けなければ俺が潰れる。倒れれば、全部が止まる。
手が動いた。弾けるような感覚はない。棚を整理するように、自然だった。
商業、政治、軍事、個人。四つの区画を作り、データをそれぞれに振り分けた。商業データを見るときは商業の区画だけが開く。政治を見るときは政治だけ。他の区画は閉じたまま待っている。鍵は俺だけが持つ。
処理が軽くなった。頭の中の渋滞が消えた。
◇
次に、人を分けた。
セレナには商業と政治の区画を開く。彼女は両方を見る必要がある。バルクハルトとの窓口を務めている以上、政治の動きを知らずに交渉はできない。
ミラには護衛に必要な範囲だけ。誰が脅威で、どこが危険か。それ以外は要らない。
クレアには文書関連の区画。神殿記録との照合が主な仕事だ。
エドとリッツには商業だけを開く。仕入れ、配送、顧客。ディートリヒのことも、バルクハルトとの繋がりも、ギルドの歪みも渡さない。知れば巻き込まれる。巻き込ませるわけにはいかない。
合理的だ。全員が全てを知る必要はない。知る必要がある人に、必要な分だけ渡す。
そう自分に言い聞かせた。
◇
夕方。エドが配達から戻ってきた。
「レインさん」
市場の土埃がまだ袖についている。汗を拭きながら、俺の机の前に来た。
「最近、俺に話さないことが増えてないっすか」
いつもなら、この前に一つ冗談が入る。今日はない。
手が止まった。
エドの目を見た。いつもの屈託のない顔だ。だが目の奥に、笑っていない部分がある。
「気のせいだ」
嘘だ。
エドはセレナやクレアと俺が話しているのを見ている。帳簿を閉じて別室に行くのを見ている。声のトーンが変わるのを聞いている。十年間一緒にいた人間は、そういうことに気づく。
「……そうすか」
エドが笑った。いつもの笑顔だ。だが口角の上がり方が浅い。唇の端が少しだけ早く落ちた。
「じゃ、明日の配達先の確認、あとで持ってくっす」
階段を降りていく足音が軽い。エドの足音はいつも軽い。軽身スキルのせいか、性格のせいか。十年間、この足音が商会の中を走り回っていた。
俺はエドにスキルの真実を話さなかった。話す必要がないからだ。区画の外にいる人間に、区画の中の情報を渡す理由はない。
合理的だ。
合理的なはずだ。だがエドの笑顔が浅かったことが、帳簿を開いた後も消えなかった。情報を分ければ効率は上がる。だが知らされない側にとって、それは壁だ。
壁の向こうにいることを、エドは気づいている。気づいていて、「そうすか」と笑った。
壁の向こうから、エドは扉を叩かなかった。
その笑顔を区画のどこに入れればいいのか、俺には分からなかった。
分からないまま、区画はもう閉じてしまった。十年間同じ場所にいた人間を、俺は今日、自分の手で外に出した。




