名前
夜。事務所の窓から裏庭が見えた。
ミラが素振りをしている。蝋燭の明かりが届かない暗がりの中で、刃が空気を切る音だけが聞こえる。横薙ぎ、突き、上段、振り下ろし、袈裟。いつもの順番だ。五十回で一巡、四巡で二百回。毎日同じ順番で繰り返す。
二巡目に入った。横薙ぎ、突き。上段——
腕が止まった。
剣を頭上に構えたまま、ミラが動かない。三秒。五秒。腕が下がった。素振りを再開せず、剣を鞘に戻す。鞘口に金属がぶつかる、乾いた音がした。
ミラの素振りが途中で止まるのを、俺は見たことがない。
止まるはずのない場所で止まったことまで、すぐに分かった。
◇
裏庭に出た。秋の夜気が首筋に当たる。虫の声が低い。裏庭は狭い。三歩で端から端まで届く。石畳の隙間から雑草が伸びている。
ミラは裏庭の隅に立っていた。鞘に収めた剣を壁に立てかけて、腕を組んでいる。汗が首筋を流れている。左足のつま先が石畳の継ぎ目を擦っていた。俺が来たのは見えているはずだが、こちらを向かない。
「素振り、途中で止まったな。珍しい」
「別に」
短い。剣を立てかけた壁の方を見ている。
沈黙が落ちた。虫の声と、遠くの犬の鳴き声。裏庭の石畳が夜露で湿っている。
「あのさ」
ミラが言った。声が低い。
沈黙。
喉が一度だけ鳴った。
「反射が変なんだ。昨日から」
昨日。事務所に駆け戻ってきた時のことだ。息が上がっていて、声が震えていた。反射が事務所の方角に向いた、と言っていた。
「条件を整理しよう。反射は身体的脅威に——」
「やめろ」
声が大きかった。裏庭の壁に跳ね返って、虫が一瞬黙った。
ミラがこちらを向いた。目が暗い中で光っている。右手が拳になっている。剣の柄ではなく、何も握っていない拳だ。
「分析するな」
息を吸った音がした。ミラの方からだ。肩が上がっている。怒鳴ったあとで、自分の声に追いついていないようだった。
「お前はいつもそうだ。全部データにする。人の気持ちまで」
人の気持ち。
その言葉が、頭の中を素通りした。意味より先に、重さだけが胸の底に落ちた。
口を開いたが、何も出なかった。整理しようとした言葉が、喉の奥で固まっている。謝るべきなのかさえ、判断がつかない。
ミラも黙った。
虫の声が戻ってきた。石畳の上で、二人の影が蝋燭の明かりから遠く、薄い。風が裏庭を通り抜けて、ミラの短い赤毛を揺らした。
先に口を開いた方が壊れる気がして、どちらも動けなかった。
◇
どれくらい経ったか分からない。
ミラが口を開いた。声が小さかった。
「……名前」
「え?」
「お前に名前を書いてもらった紙。まだ持ってる。一枚目のやつ」
ミラに文字を教え始めた頃だ。最初の手本に、ミラの名前を書いた。四文字。インクが滲んだ安い紙に、俺の字で。乾く前に紙の角が少し波打ったのを覚えている。ミラはその四文字を、黙ったまま何度も指でなぞっていた。読めるようになったら、何を読みたいと聞かれて「知らねえよ」と答えた。あの紙を、まだ持っている。
ミラは顔を逸らしていた。暗くて表情は見えない。だが声が震えている。昨日と同じ震え方だ。夜気の中で、その震えだけが近かった。
何も言えなかった。
ミラが踵を返した。剣を壁から取り、脇に抱えた。呼び止める言葉は浮かんだが、どれも背中に届く形にならなかった。背中が事務所の中に消えていく。階段を踏む足音が二階に上がり、扉が閉まる音がした。
裏庭に一人になった。虫が鳴いている。石畳の冷たさが靴底から伝わってくる。風が止んでいた。さっきまでミラが立っていた場所に、素振りで削れた石畳の跡がある。まだ熱だけが残っている気がした。二階からは、もう何の音もしない。
分析しようとした。昨日の反射の異常、今夜の素振りの中断、「分析するな」という拒絶、そして「名前」。頭の中に表を作り、時刻、場所、発話、沈黙と欄を増やしていく。それでも埋まるのは端だけだ。
線が走らない。
「名前の紙を持っている」。この事実から先へ進めない。問いの形が分からない。答えを出す以前に、何を問えばいいのか分からない。
ミラの中では、昨日から今夜まで、もう一本に繋がっている。
俺だけが、その名前をまだ読めない。




