脅威でないもの
朝、確かめるべきことを一つに絞って、ミラに新任書記官の身辺調査を頼んだ。
「行動パターンを見てくれ。誰と会っているか、どこに出入りしているか。二日分でいい」
ミラが腕を組んだ。
「尾行か」
「ああ」
「分かった」
それだけ言って、剣帯を締め直した。鉄の留め金が鳴る。仕事の顔だった。
◇
昼過ぎ。事務所でギルドの記録を整理していた。三つの中継商会の取引経路を品目ごとに分類し、歪みのパターンを時系列で並べる。穀物、布地、木材。偏りの形が揃いすぎている。仕込まれた歪みだ。
誰が仕込んだのか。ヴェルナーか、ディートリヒか、あるいは別の手か。経路図は線を引くが、手の主は見せない。
階下で扉が勢いよく開く音がした。
「レインさん、まずいっす」
エドの声が階段を駆け上がってきた。息が荒い。
「ギルドの知り合いから伝言っす。アイゼンベルクの配下らしい連中が、商会の方に向かってるって」
俺は手を止めた。
「何人だ」
「三人か四人。見慣れない顔だって」
エドは答えながら、すでに窓の鎧戸を閉め始めていた。手が速い。俺が指示を出す前に動いている。
「ミラは?」
「まだ戻ってないっす」
裏口の戸を閉める音がした。エドが二階と一階を往復している。鎧戸の留め金が次々に落ちる。事務所が暗くなった。
帳簿を引き出しに入れた。蝋燭を一本だけ残して、他を消した。俺にできるのは、証拠を隠して待つことだけだった。文鎮に手を伸ばしかけて、やめた。武器になる重さじゃない。
待った。
エドの足音だけが事務所の中を動いていた。
十分。二十分。外から足音が聞こえた気がしたが、通り過ぎた。鎧戸の隙間から差す光が橙に傾いている。夕方だ。
何も起きなかった。誤報だったのか、偵察だけだったのか。判断がつかない。
◇
鎧戸を開け始めたところで、表の扉が叩かれた。
三回。間隔が短い。
エドが扉の前に立って、「どちらさんすか」と声をかけた。
「ミラだ。開けろ」
声が荒い。普段より高い。エドが閂を外した。
扉が開いた。ミラが立っていた。息が上がっている。額に汗が滲んでいる。髪が頬に張りついていた。走ってきたのだ。裏通りからここまで、全力で。
俺の顔を見た。
「……なんだ、無事か」
声が震えていた。
「ああ。何もなかった。エドが先に閉めてくれた」
ミラは扉の枠に手をついた。息を整えている。目が俺の顔から離れない。確認している。本当に無事かどうか、目で確かめている。
「どうした」
「知らねえよ」
短い。吐き捨てるように言った。
「尾行してたんだ。書記官が酒場に入ったから、裏口で待ってた。酔っ払いが三人来た。大したことない連中だ。蹴散らすのに十秒もかからねえ」
ミラの右手が左腕の袖に触れた。火傷痕がある場所だ。
「なのに、反射が変だった。酔っ払いに対してじゃなくて——こっちに向いた。事務所の方に。身体が勝手に走り出した」
事務所の方に。
だがミラが走り出した時刻、事務所に脅威はなかった。エドが急報を受けて閉めたのは昼過ぎだ。ミラはその情報を知らない。知らない脅威に、反射は動かない。
なのに動いた。
分析が止まった。経路図を引こうにも、起点がない。
「反射が変なんだよ」
ミラがもう一度言った。今度は声が低い。自分でも分かっていない。分からないことが、苛立っている。
「……少し休め」
他に言えることがなかった。
ミラが目を逸らした。右手が袖から離れた。
「寝る」
それだけ言って、二階に上がった。階段を踏む音がいつもより重い。
エドが鎧戸を全て開け終えて、首を傾げた。
「ミラさん、大丈夫っすか」
「分からない」
正直に答えた。
分からない。ミラの反射は身体的な脅威に反応する。事務所にいた俺へ、刃も拳も届いていない。エドが閉めてからは、足音さえ近づかなかった。
頭の中に表を開いた。時間、距離、視認、接触。欄を作っても、最初の一行が埋まらない。
それでもミラは走ってきた。
物理的でない脅威。
俺のデータベースに、その種のレコードはまだない。




