索引の代償
ヴェルナーが事務所に来たのは、約束通り三日後の朝だった。
俺は机に書類を一枚だけ置いた。条件を箇条書きにしたものだ。
「任期は一年。更新は双方の合意による。ギルドの全記録へのアクセスは認めます。ただしヴェルナーさんへの情報提供は品目を限定する——市況データと相場の動向のみ。個別商会の取引記録は含みません」
ヴェルナーが書類を手に取った。老いた指が紙の端を滑る。
しばらくして、顔を上げた。
「……交渉が上手くなったね。最初に会った頃より」
穏やかな声だった。目が笑っていない。
俺は「ありがとうございます」と言わなかった。「ではこの条件で」と言って、手を差し出した。
ヴェルナーが握った。手が乾いていた。体温が低い。
◇
ギルドの記録室は、建物の北側にあった。窓が少なく、日中でも薄暗い。棚が天井まで積み重なり、半年分の取引台帳が整然と並んでいる。紙とインクの匂いが濃い。
最初の一冊を開いた。
インデックスを張り始める。品目ごとに、取引日ごとに、仲介した商会ごとに。数千件のデータが頭の中で整列していく。
麦は秋に集中して動く。布地は春の前に量が増える。木材は冬に落ちて春に急増する。どれも当たり前の動きだ。だが軍需品だけが違った。季節を問わない。年間を通じて安定した量が流れている。
王都経済の血流が見えた。
一件一件の記録に重さがある。誰かの仕入れ、誰かの売上、誰かの生活。それを上から見下ろしている。商人は市場の中にいる。だが俺は今、市場の外に立っている。監視する側だ。
その違和感を、棚に置いた。今は使わない。
◇
翌朝、バルクハルト宛に報告書を書いた。
「ギルドの情報仲介役を引き受けた。一年任期。提供情報は市況・相場データに限定。個別商会の取引記録は含まない」
返信が届いたのは、その日の夕方だった。一行だけ。
「承知した。使い方を間違えるな」
短い。冷たい。報告書を折り畳んで引き出しに入れた。
◇
夜、扉が叩かれた。
エドかリッツだと思って「開いている」と言ったが、入ってきたのはクレアだった。三つ編みが少し乱れている。眼鏡の奥の目に、普段の好奇心とは違う色がある。
「ギルドの情報仲介役、聞きました」
「ああ」
「あなた、これ以上目立つべきじゃないです」
「問題ない」
クレアが少し間を置いた。眼鏡の奥の目が、わずかに泳いだ。
「問題ないとは思いません」
淡々とした声だ。だが来なくてもいい時間に、わざわざ来ている。
「でも——あなたが決めたことなら、反対はしません」
「ただ、知っておいてください。情報が集まる場所には、情報を狙う者も集まります」
クレアが扉に手をかけた。
「お気をつけて」
扉が閉まった。
俺は「ありがとう」と言い損ねた。言うべきだったと思った。そういう計算をしない人間に対して、計算を返すのは筋が違う。
一人になった事務所で、ギルドのインデックスを整理した。王都経済の血流が見える。ディートリヒが動いているなら、その痕跡もここに残るはずだ。
俺はまだ商人だ。
バルクハルトと初めて取引を交わした夜も、誰もいない事務所でそう言い切った。あの夜と同じ机の前にいる。だが同じ重さでは言えなかった。商人と権力の道具の間で、足元の線が揺れている。
情報が集まる場所には、情報を狙う者も集まる。
俺は今、王都で最も危険な位置に立っている。




