帰郷
ヴェルナーに三日の猶予を求めた翌日の朝、俺はバルトス領に向かう馬車に乗っていた。
バルトス伯爵領の外壁が見えてきたのは、昼を過ぎた頃だった。半年ぶりだ。あの頃と比べて、街道の両側が静かになっている。農地の区画が減った。柵の一部が倒れたまま放置されている。通りすがりの農夫の顔を一瞬だけ見た。目の下が暗い。
ミラが馬車の幌の隙間から外を覗いていた。
「……戦費か」
「ああ。南方戦線が長引いている。バルトス伯爵領は補給路に近い」
ミラが幌を戻した。それ以上は言わなかった。
市場を通ったが、店が半分以上閉まっていた。残っている露店も品が少ない。野菜が台の端に寄せられ、空白が目立つ。通りかかった年配の女が一人で麦を量り売りしていた。分銅が欠けていて、代わりに小石が使われている。
半年でここまで変わるか——いや、変わっていたのを俺が見ていなかっただけだ。王都から張った情報網の中に、ここの数字は入っていなかった。
◇
門番が二人いた。片方は若い。鎧の継ぎ当ての跡が新しい。もう片方は四十近い男で、目つきが疲れている。
「用件を」
四十近い男の方が言った。
俺は一瞬、止まった。
「レイン・バルト——」
口の中で言葉を噛み潰した。
「アルク商会のレインだ。バルトス家の側室の方に用がある。届け物をしに来た」
男の目が細くなった。少し間があった。
「……少し待て」
確認のために一人が引っ込んだ。俺は正面を向いたまま待った。
男が戻ってきた。「通れ」。それだけだった。
◇
母の離れは、城の東側の外れにあった。
小さな庭に花が三鉢並んでいる。屋根の端が綻びていた。以前から直っていない。
ミラを外で待たせて、戸を叩いた。
「はい」
声がした。変わっていない。
扉が開いた。母が立っていた。白髪が増えている。半年でここまで増えるのか。それ以外は変わっていない。背筋は伸びたまま、目は穏やかだった。
「……レイン」
「突然すみません。届け物があって」
懐から革袋を取り出した。金貨10枚を借りた。利子は年3割が相場で、半年分なら15枚。切りのいい金貨30枚にした。手の中で、ずっしりとした重さがある。
「金貨30枚入っています。独立のときに借りた分の、利子つきです」
母の目が袋に落ちた。数えない。重さも確かめない。それから俺の顔に戻った。
「要らない」
「受け取ってください」
「要らないと言っている」
穏やかなまま、同じ声だった。
「お前が元気なら、それでいい」
返済の理屈は用意してあった。利率の計算も出来ている。金貨10枚を借りたのは事実で、妥当な利子をつけて返すのは筋だ。だがそれを並べる気にならなかった。
母の前では、計算が止まる。
袋を部屋の縁に置いた。
「置いていきます」
母が何か言いかけた。俺は頭を下げて、向きを変える。後ろで小さな息の音がした。聞こえないふりをして歩いた。
◇
外に出ると、ミラが壁に背を当てて立っていた。俺が出てくるのを見て、少しだけ姿勢を起こした。
「終わったか」
「ああ」
二人で来た道を戻り始めた。石畳の音だけがしばらく続いた。城の西側を抜ける風が冷たい。
「いい母親だな」
ミラが言った。前を向いたまま。
「……ああ」
それ以上は続かなかった。
横目で見ると、ミラの右手が左腕の袖に触れていた。火傷の跡がある場所だ。握っているわけでも、撫でているわけでもない。ただ触れている。
門を抜けて街道に出た。馬車が止まっている。御者が帽子のひさしを引いて会釈した。俺は軽く頷き返して、馬車に乗り込んだ。
屋根を直す程度の金は、もうある。直させてほしいと頼んでもいい。だが今日、俺が置いてきたのは金貨の袋だけだ。本当に返したいものは、まだ返せていない。




